天保期渡里村内圷絵図(彰考館所蔵)
堀村は、元禄年間には六百七十八石七斗四升七合、天保年間には七百九十三石五斗八升三合の村高があり、戸数は七六戸であった。それが明治六年に渡里村・見和村・常磐村・開江村・中丸村・赤塚村と第六大区第一小区となり、明治八年には前記六年時の村に萱場新田・河和田村が加わって第一大区第五小区となって、明治十五年には渡里村連合村となり、明治十七年には渡里村・田野村・木葉下(あぼっけ)村・谷津(やづ)村・全隈(またぐま)村・開江村などと堀村連合村となる。
渡里村は、袴塚村より渡村が分村し、それが再度圷渡村と台渡村に分村し、天保十三年(一八四二)に合併して出来たものである。圷渡村は、元禄年間に九百八十一石四斗三升八合、天保年間に千四十七石五斗九升七合の村高があり、戸数は七六。台渡(だいわたり)村は、元禄年間に八百三十三石八升一合、天保年間に八百四十八石七斗一升一合の村高、五二の戸数があった。この渡里村の明治時代の行政区は、堀村の変遷と同じである。
天保期渡里村内台絵図(彰考館所蔵)
天保期田野村絵図(彰考館所蔵)
図
渡里地区 町名と戸数 (昭和34年7月1日) | ||
地区・町名 | 戸数 | |
渡里 | 渡里町 | 703 |
堀町 | 465 | |
田野町 | 118 | |
計 | 1,286 |
田野村は、元禄年間は八百三十八石六斗六升九合、天保年間は千五十六石六斗七升の村高で、八四戸あった。明治六年には、飯富(いいとみ)村・岩根(いわね)村・藤井(ふじい)村・成沢(なるさわ)村・木葉下村・谷津村・全隈村と第六大区第二小区、明治八年には同六年時の村々以外に大塚(おおつか)村・金谷(かなや)村・飯島村と現在の内原町の内田島(たじま)村・三野輪(みのわ)村などと第一大区第六小区を構成した。明治十七年には、前記のように堀村連合村に属している。