吉田村は、明治二十二年に「戸数三百ニ充タスシテ資力充分ナラス、又、吉沢・米沢・東野三村ハ共ニ戸数五十戸ニ満タサル小村ニシテ到底自治独立スル能ハス」と、四村合併して成立した村である。その中心となった吉田村には、「続日本後紀」にも記され、平安時代の初期、承和十三年(八四六)に大社から明神に昇格し、官社に編入され、常陸三の宮と称された吉田神社がある。もともと、ここは常陸国那珂郡吉田郷の中心であり、「将門記」の吉田郡もこの村を中心としている。江戸時代には、「吉田・千波・払沢・阿佐・倍田尻・笠原・米沢・狐沢・古宿」を吉田九カ村と称していたので、これらはかつて吉田郷内であったらしい。元禄年間に千四百九十石一斗五升一合、天保年間には千七百三十三石六斗の村高、一八五の戸数があった。
古宿(ふるじゅく)村は、古くは吉田古宿と呼ばれ、正保元禄の間に古宿とだけ称されるようになった。元禄年間に二百九十四石九斗八升八合、天保年間に三百十五石九斗一升七合の村高で、戸数は二五であったが、天保十三年(一八四二)に吉田村に編入された。
この古宿村を編入した江戸時代の吉田村は、明治六年に浜田村の一部や酒門村・石川村・見川村・千波村・笠原新田・若宮村などと第三大区第一小区となった。同八年には谷田村・酒門村・石川村、現在の茨城町内の若宮村、下石崎(しもいしざき)村、現在の常澄村内の森戸(もりと)村・下入野(しもいりの)村・秋成(あきなり)新田・大場(おおば)村・島田(しまだ)村・東前(とうまえ)村・大串(おおくし)村・栗崎(くりざき)村・六反田(ろくたんだ)村など一五村で第一大区第四小区を形成している。そして明治十五年と同十七年には、明治二十二年新村結成をした四村と吉田村連合村を構成する。
米沢村は、正保年間に吉田村より米沢新田として分村し、元禄七年(一六九四)に新田名を改め本村となった。元禄年間の村高は二百三石八斗三升九合、天保年間には二百二十一石六升九合あり、戸数は三一であった。
吉沢村は、天保十三年(一八四二)に木沢(きざわ)新田と茂沢(もざわ)新田が合併して成立した村であった。木沢新田は、吉田村より喜左衛門新田として分村し、寛永十八年(一六四一)に木沢新田と改称し、元禄年間には六十七石二斗九升一合、天保年間には百二十九石三升六合の村高があり、戸数は二四であった。茂沢新田は、吉田村より茂左衛門新田として分村し、寛永末年に茂沢新田と改称した。元禄年間に四十二石八斗七升一合、天保年間には八十七石七斗七升九合の村高で、戸数は二二あった。
東野(とうの)村は、元禄以後に吉田村より遠野新田として分村し、のちに東野新田となり、天保十三年(一八四二)には新田名を廃している。村高は天保年間に百五十七石三升一合あり、戸数は二四であった。
以上の米沢村・吉沢村・東野村の三村は、明治六年に平須村や現在の茨城町内の大戸村・長岡(ながおか)村・前田(まえだ)村・谷田部村などと第四大区第二小区を構成し、明治八年には茨城町内の前記村以外にも小鶴(こづる)村・鳥羽田(とっぱだ)村・秋葉(あきば)村・神谷(かみや)村・南島田(みなみしまだ)村・下座(げざ)村・生井沢(なまいざわ)村・上雨谷(かみあまがい)村・下雨谷(しもあまがい)村・小幡(おばた)村・奥谷(おくのや)村・上石崎村・中石崎村など二〇村で第一大区第八小区となる。
図
吉田地区 町名と戸数 | ||
(昭和34年7月1日) | ||
地区・町名 | 戸数 | |
吉田 | 元吉田町 | 811 |
東野町 | 51 | |
吉沢町 | 143 | |
米沢町 | 56 | |
計 | 1,061 |