[[昭和三十年]]

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 昭和三十年四月一日には、東茨城郡河和田村・同上中妻(かみなかづま)・同山根(やまね)が合併して、赤塚村が誕生した。このとき山根村大字成沢(なるさわ)は飯富(いいとみ)へ、また河和田村の大字赤塚と大字河和田の字高間原・字狭間谷津・字宮原・字名木内・字北赤塚・字巡見それぞれの一部が水戸市に編入された。
 この河和田村大字赤塚(旧赤塚村)は、河和田村より赤塚新田として分村し、元禄七年(一六九四)新田名を廃止した。元禄年間には二百四十三石一斗一升五合、天保年間には三百六十八石一斗一升三合の村高があり、四七の戸数があった。
 明治六年には見和村・常磐村・堀村・渡里村・開江村・中丸村などと、第六大区第一小区を構成した。明治八年になると、田野村・飯富村・岩根村・藤井(ふじい)村・成沢村・木葉下(あぼっけ)村・谷津村・全隈(またぐま)村・大塚村・金谷村・飯島村そして現在内原町内の田島村・三野輪村など一四村で第一大区第五小区を構成する。明治十五年には中丸村・萱場新田・河和田村、明治十七年には大塚村・金谷村・飯島村も加えて、河和田村連合村となった。
 この河和田村大字赤塚に、明治二十二年水戸と小山間六七キロメールの鉄道線路が布設されて、赤塚駅が設けられた。これが基点となって駅前商店が形成され、水戸の住宅地にもなっていった。このように駅を中心とした赤塚地区は、河和田村の中でも水戸市街地と密接な関係のある特別な地域となり、他の農業中心の大字とは分離し、水戸市に編入することになったのである。