飯富村は、明治二十二年に「旧飯富村ハ戸数百七十九ニシテ資産モ又余裕アルカ如シト雖モ、藤井・岩根ノ両村ハ共ニ其戸数百ニ満タス」、「地勢人情モ差異アル事ナク自然一団体」のようであったことから合併し、その中心的村名を新村名として誕生した。その位置が水戸の北西郊外にあたり、初めは市民向け野菜の供給地となっていたが、のちには住宅地としても開発され、日常生活上水戸市民と一体化していたため合併の対象になる。
岩根(いわね)村は、元禄九年(一六九六)に根本(ねもと)村・押切(おしきり)村そして下野村が合併して押切村となり、同十四年(一七〇一)に岩根と改称した村である。元禄年間の村高は八百七十六石二斗一合で、天保年間には千五十六石九斗九升三合で、戸数は九二であった。
天保期岩根村絵図(彰考館所蔵)
天保期飯富村絵図(彰考館所蔵)
飯富地区 町名と戸数 | ||
(昭和34年7月1日) | ||
地区・町名 | 戸数 | |
飯富 | 藤井町 | 143 |
岩根町 | 175 | |
飯富町 | 281 | |
成沢町 | 148 | |
計 | 747 |
飯富村は、天保以前は大部(おおぶ)村といい、古代の那珂郡大井郷の中心地でっあた。元禄年間に千六百五十五石三斗四升七合、天保年間には千八百二石一斗六升一合の村高で、戸数は一六〇あった。
藤井村は、康安二年(一三六二)の佐竹義篤譲状に「那珂西藤井郷」と記録されるほど古い地名である。元禄年間には九百七十一石四斗一升八合、天保年間には千八十三石八斗一升の村高で、戸数は一〇三あった。
これら岩根村・飯富村・藤井村の三村は、明治六年には田野村・成沢村・木葉下村・谷津村そして全隈村と第六大区第二小区を構成する。明治八年には、これらの村に大塚村・金谷村・飯島村そして現在の内原町内の三野輪村・田島村を含めて第一大区第六小区となって、明治十五年には、のちに飯富村となる三村で岩根村連合村となり、同十七年には成沢村を加えて飯富村連合村となった。
国田村は、明治二十二年に田谷(たや)村・上国井村・下国井村が「三ケ村共戸数百戸内外ノ小村ナルヲ以テ到底自治独立ノ資力ニ乏シ」として、合併した村である。これは対等の村の合併であったから、特定村名の使用が出来なかったため、上国井村、下国井村の国と田谷村の田を組み合わせ、国田村という新村名を作りあげたのである。この村は、那珂川に千歳(ちとせ)橋がかかってから水戸市街との連結が強まり、近郊農業が盛んとなった。この交通路上の結びから、水戸市編入が始まったのである。
天保期藤井村絵図(彰考館所蔵)
図
天保期田谷村絵図(彰考館所蔵)
国田村の大字田谷、江戸時代の田谷村は、「弘安太田文」の那珂東郡の部分に「田谷東方十五町、同田谷西方十五町」ともあるので、中世には開発の進んだ土地である。元禄年間に千七百五十三石三升四合、天保年間に千八百三十八石七斗二升九合の村高があり、戸数は一一六あった。
天保期上国井村絵図(彰考館所蔵)
天保期下国井村絵図(彰考館所蔵)
上国井村・下国井村は、「弘安太田文」には「国井保二十六町五段大」とあり、応永二十二年(一四一五)八月二十日に鎌倉公方足利持氏は那珂東国井郷内(佐竹左馬助跡)を鶴岡八幡宮に寄進したともある。そののち、年代は不明であるが、既に元禄年間には上下両村に分村し、那珂川に沿って上流である北半分を上国井村、下流の南半分を下国井村と呼称するようになった。上国井村の村高は元禄年間には九百七十石九斗四升三合、天保年間には千百九十八石一斗五升五合で、戸数は一一二であり、下国井村は元禄年間が千三百五十九石五斗五升八合で、天保年間が千六百八石三斗九升三合、戸数は一一二であった。
明治の行政区は、明治十五年に田谷村が一時中河内村連合村となり分離した以外、三村ともに同じ組織に属する。明治六年は、上河内村・中河内村・下河内村と青柳村・戸村を含めて、第十区第一小区を構成した。明治八年になると、その区域が拡大し、現在の那珂町内の南酒出村、北酒出村・豊喰新田・東木倉村・西木倉村・福田(ふくだ)村・飯田(いいだ)村・鴻巣(こうのす)村など八村を加えたが青柳村を分離したので一二村によって、第二大区第五小区となり、明治十五年には上国井村連合村、明治十七には飯田村を加えて下国井村連合村となっている。
図
国田地区 町名と戸数 | ||
(昭和34年7月1日) | ||
地区・町名 | 戸数 | |
国田 | 田谷町 | 218 |
下国井町 | 221 | |
上国井町 | 211 | |
計 | 650 |