赤塚村の構成単位となった山根村は、明治二十二年に戸数が少なく、独立した自治が出来ない成沢村・木葉下村・全隈村・谷津村そして開江村が合併したもので、その村々が「山麓ニ在ルカ故ニ地形ヲ表シ」た山根の名称を新村名としたのである。
赤塚村(昭和30年) | |
東西(km) | 8.0 |
南北(km) | 11.5 |
面積(km2) | 34.74 |
人口(人) | 10,153 |
戸数(戸) | 1,866 |
木葉下村絵図(市内、大高憲晁氏所蔵)
成沢村は、永禄年間に藤井村より分村したと伝えられ、元禄年間には六百五十六石四斗二升五合、天保年間には八百四十三石二斗八升三合の村高があり、戸数は七六あった。高根村は、元禄年間には四十九石五斗七合の村高で、元禄十五年(一七〇二)に成沢村に編入された。
木葉下村に関しては、慶長三年(一五九八)の「常陸国茨城郡木葉下村御検地帳」が現存し、それには農民が四三人登録され、百四十六石七升一合の村高となっている。なお、農民の数は寛永十八年(一六四一)には四八人、正徳三年(一七一三)には四四軒、文化年間には二三戸と伝えられる。村高も元禄年間には二百九十四石三斗四升五合、天保年間には三百四十六石三升一合と増加している。三ケ野村は、元禄年間には九十三石五升八合、天保年間には百十六石六斗一升八合の村高、戸数は八あったが、天保十三年(一八四二)には木葉下村に編入された。
全隈村は、古代の常陸国那珂郡全隈郷の中心地で、慶長三年(一五九八)の検地では三百七十九石七斗四升二合、元禄年間には六百五十九石四斗四合、天保年間には七百五十七石四斗四升一合の村高があり、戸数は三〇あった。なお、全隈は、元禄時代に一時又隈(またぐま)とも記録された。
谷津村は、現在の内原町内の大足(おおだら)村から分村し、元禄年間には二百六十五石一斗二升五合、天保年間には七百五十九石八斗二升一合、戸数は三六あった。
以上の村は、明治六年に田野村・飯富村・岩根村・藤井村と第六大区第二小区となり、明治八年には前記の村と大塚村・金谷村・飯島村そして現在の内原町内の田島村・三野輪村を加えて第一大区第六小区となった。明治十五年には、のちに山根村になる村々によって連合村となり、明治十七年には明治二十二年に飯島村となった村に成沢村が加わり、木葉下村・全隈村・谷津村そして開江村は、のちに渡里村となった堀村・渡里村・田野村の三村と共に堀村連合村となった。なお、開江村は、元禄年間には四百九十七石六斗一升四合、天保年間には六百三十五石六斗三升六合、戸数は八四で、明治六年には第六大区第一小区、明治八年には第一大区第五小区であった。
河和田村は、明治二十二年に「旧河和田村ハ其版図広シト雖モ戸数二百五戸ニ過キス、又萱場新田・赤塚・中丸三村ハ各小村ニシテ何レモ」自治体が維持できず、四村が合併して成立した村である。
中丸村は、河和田村より中丸新田として分村し、元禄七年(一六九四)には新田名を改めた。元禄年間の村高は五十七石四斗七升六合、天保年間には百二十二石三斗六升五合、戸数は一六あった。河和田村は、「元禄郷帳」に「川和田村千百八十六石八斗五升五合」とあり、天保年間には千五百五十六石三斗七升六合、戸数は一三七あった。萱場新田は、河和田村より分村したと伝えるが、その年代は不明である。元禄年間には百五十八石六斗八升一合、天保年間には二百七十六石二斗七升八合の村高があり、戸数は三一であった。
明治六年には、中丸村と赤塚村が開江村・見和村・常磐村・堀村・渡里村と第六大区第一小区を構成し、河和田村は第五大区第一小区、萱場新田は第四大区第一小区となった。明治八年には、見和村を分離し、河和田村と萱場新田を含めて第一大区第五小区になった。明治十五年には同二十二年と同じ構成村による河和田村連合村になったが、同十七年には拡大し大塚村・金谷村・飯島村をも含めている。
上中妻村は、明治二十二年に「地勢民情等相同シク一村ヲナセルニ依リ」と、大塚村・金谷村・飯島村・加倉井(かくらい)村の四村が合併し、誕生した村である。その村名は、古代中世とここが那珂郡の西辺にあたり、特に中世「中妻(那珂郡カ)三十三郷」と呼称されていた桜川地域の上流部に当たるため、上中妻村と命名したものである。
大塚村は、元禄年間に六百五十九石二斗五合、天保年間には六百九十五石二斗五升四合の村高があった。金谷村は、元禄年間に二百九十八石一斗五升七合、天保年間には三百六石五斗五升八合の村高で、この両村は明治六年には共に第五大区第一小区に属した。なお、大塚村と金谷村は江戸時代には宍戸領に属した。
飯島村は、元禄年間には四百六十二石八斗一升五合、天保年間には四百七十一石二斗六升六合の村高があり、第五大区第二小区に属した。
加倉井村は、古代の那珂郡隠井郷の中心地で、元禄天保ともに村高は千六十七石七斗九升七合八夕で、明治六年には第五大区第一小区に属した。飯島村と加倉井村は江戸時代は旗本領であった。
これら村のうち、大塚村・金谷村・飯島村の三村は第一大区第六小区、加倉井村は現在の内原町内の大部分と共に第五大区第三小区に属した。これが明治十五年には、同二十年新村構成と同じ村によって、金谷村連合村となる。ところが、明治十七年には加倉井村が大足村連合村に入り、他は河和田村連合村に編入されている。
加倉井村絵図(市内、薗部一郎氏所蔵)
金谷村絵図(金谷区有文書)
現水戸市内の文化年間の村 | |||
村名 | 戸数 | 東西 | 南北 |
常葉 | 423 | 34町 | 24町 |
袴塚 | 82 | 9 | 24 |
見和 | 82 | 19 | 10 |
見川 | 98 | 6(18) | 22(30) |
富沢 | 26 | 9 | 9 |
千波 | 62 | 18 | 17 |
福沢 | 31 | 3 | 22 |
小吹 | 48 | 16 | 20 |
笠原 | 40 | 30 | 29 |
平須 | 46 | 19 | 19 |
浜田 | 29 | - | - |
細谷 | 128 | 34 | 56 |
吉沼 | 97 | 12 | 10 |
渋井 | 31 | 7 | 13 |
東大野 | 42 | 7 | 10 |
西大野 | 30 | 12 | 8 |
圷大野 | 32 | 6 | 13 |
中大野 | 43 | 3 | 11 |
堀 | 76 | 22 | 18 |
圷渡 | 78 | 19 | 16 |
台渡 | 52 | 17 | 15 |
田野 | 84 | 28 | 21 |
青柳 | 137 | 9 | 16 |
西蓮寺 | 51 | 19 | 10 |
中河内 | 84 | 25 | 7 |
上河内 | 27 | 5 | 3 |
吉田 | 185 | 20 | 34 |
古宿 | 25 | 7 | 17 |
米沢 | 31 | 3 | 22 |
木沢 | 24 | 6 | 8 |
茂沢 | 22 | 5 | 15 |
東野 | 24 | 12 | 9 |
谷田 | 36 | 9 | 14 |
坂戸町付 | 67 | 9 | 13 |
谷田町付 | |||
坂戸 | 48 | 6 | 9 |
石川 | 80 | 17 | 25 |
赤塚 | 47 | 18 | 3 |
河和田 | 137 | 17 | 111 |
岩根 | 92 | 8 | 14 |
飯富 | 160 | 12.8 | 30 |
藤井 | 103 | 16 | 16 |
田谷 | 116 | 6 | 26 |
上国井 | 112 | 23 | 12 |
下国井 | 112 | 21 | 25 |
成沢 | 76 | 26 | 20 |
木葉下 | 23 | 32 | 18 |
三ケ野 | 8 | 15 | 8 |
全隈 | 30 | 18 | 16 |
谷津 | 36 | 23 | 19 |
開江 | 84 | 15 | 16 |
中丸 | 16 | 12 | 7 |
萱場 | 31 | 10 | 17 |
図
赤塚地区 町名と戸数 | ||
(昭和34年7月1日) | ||
地区・町名 | 戸数 | |
赤塚 | 河和田町 | 783 |
萱場町 | 71 | |
飯島町 | 88 | |
金谷町 | 45 | |
大塚町 | 257 | |
中丸町 | 56 | |
加倉井町 | 183 | |
開江町 | 165 | |
谷津町 | 82 | |
全隈町 | 103 | |
木葉下町 | 86 | |
赤塚町 | 666 | |
計 | 2,585 |