[[昭和三十三年]]

51 ~ 54/ ページ
 昭和三十三年四月一日、東茨城郡赤塚村が編入され、現在の水戸の行政区域が形成される。
 赤塚村の構成単位となった山根村は、明治二十二年に戸数が少なく、独立した自治が出来ない成沢村・木葉下村・全隈村・谷津村そして開江村が合併したもので、その村々が「山麓ニ在ルカ故ニ地形ヲ表シ」た山根の名称を新村名としたのである。
赤塚村(昭和30年)
東西(km)8.0
南北(km)11.5
面積(km234.74
人口(人) 10,153
戸数(戸)1,866


木葉下村絵図(市内、大高憲晁氏所蔵)


 成沢村は、永禄年間に藤井村より分村したと伝えられ、元禄年間には六百五十六石四斗二升五合、天保年間には八百四十三石二斗八升三合の村高があり、戸数は七六あった。高根村は、元禄年間には四十九石五斗七合の村高で、元禄十五年(一七〇二)に成沢村に編入された。
 木葉下村に関しては、慶長三年(一五九八)の「常陸国茨城郡木葉下村御検地帳」が現存し、それには農民が四三人登録され、百四十六石七升一合の村高となっている。なお、農民の数は寛永十八年(一六四一)には四八人、正徳三年(一七一三)には四四軒、文化年間には二三戸と伝えられる。村高も元禄年間には二百九十四石三斗四升五合、天保年間には三百四十六石三升一合と増加している。三ケ野村は、元禄年間には九十三石五升八合、天保年間には百十六石六斗一升八合の村高、戸数は八あったが、天保十三年(一八四二)には木葉下村に編入された。
 全隈村は、古代の常陸国那珂郡全隈郷の中心地で、慶長三年(一五九八)の検地では三百七十九石七斗四升二合、元禄年間には六百五十九石四斗四合、天保年間には七百五十七石四斗四升一合の村高があり、戸数は三〇あった。なお、全隈は、元禄時代に一時又隈(またぐま)とも記録された。
 谷津村は、現在の内原町内の大足(おおだら)村から分村し、元禄年間には二百六十五石一斗二升五合、天保年間には七百五十九石八斗二升一合、戸数は三六あった。
 以上の村は、明治六年に田野村・飯富村・岩根村・藤井村と第六大区第二小区となり、明治八年には前記の村と大塚村・金谷村・飯島村そして現在の内原町内の田島村・三野輪村を加えて第一大区第六小区となった。明治十五年には、のちに山根村になる村々によって連合村となり、明治十七年には明治二十二年に飯島村となった村に成沢村が加わり、木葉下村・全隈村・谷津村そして開江村は、のちに渡里村となった堀村・渡里村・田野村の三村と共に堀村連合村となった。なお、開江村は、元禄年間には四百九十七石六斗一升四合、天保年間には六百三十五石六斗三升六合、戸数は八四で、明治六年には第六大区第一小区、明治八年には第一大区第五小区であった。
 河和田村は、明治二十二年に「旧河和田村ハ其版図広シト雖モ戸数二百五戸ニ過キス、又萱場新田・赤塚・中丸三村ハ各小村ニシテ何レモ」自治体が維持できず、四村が合併して成立した村である。
 中丸村は、河和田村より中丸新田として分村し、元禄七年(一六九四)には新田名を改めた。元禄年間の村高は五十七石四斗七升六合、天保年間には百二十二石三斗六升五合、戸数は一六あった。河和田村は、「元禄郷帳」に「川和田村千百八十六石八斗五升五合」とあり、天保年間には千五百五十六石三斗七升六合、戸数は一三七あった。萱場新田は、河和田村より分村したと伝えるが、その年代は不明である。元禄年間には百五十八石六斗八升一合、天保年間には二百七十六石二斗七升八合の村高があり、戸数は三一であった。
 明治六年には、中丸村と赤塚村が開江村・見和村・常磐村・堀村・渡里村と第六大区第一小区を構成し、河和田村は第五大区第一小区、萱場新田は第四大区第一小区となった。明治八年には、見和村を分離し、河和田村と萱場新田を含めて第一大区第五小区になった。明治十五年には同二十二年と同じ構成村による河和田村連合村になったが、同十七年には拡大し大塚村・金谷村・飯島村をも含めている。
 上中妻村は、明治二十二年に「地勢民情等相同シク一村ヲナセルニ依リ」と、大塚村・金谷村・飯島村・加倉井(かくらい)村の四村が合併し、誕生した村である。その村名は、古代中世とここが那珂郡の西辺にあたり、特に中世「中妻(那珂郡カ)三十三郷」と呼称されていた桜川地域の上流部に当たるため、上中妻村と命名したものである。
 大塚村は、元禄年間に六百五十九石二斗五合、天保年間には六百九十五石二斗五升四合の村高があった。金谷村は、元禄年間に二百九十八石一斗五升七合、天保年間には三百六石五斗五升八合の村高で、この両村は明治六年には共に第五大区第一小区に属した。なお、大塚村と金谷村は江戸時代には宍戸領に属した。
 飯島村は、元禄年間には四百六十二石八斗一升五合、天保年間には四百七十一石二斗六升六合の村高があり、第五大区第二小区に属した。
 加倉井村は、古代の那珂郡隠井郷の中心地で、元禄天保ともに村高は千六十七石七斗九升七合八夕で、明治六年には第五大区第一小区に属した。飯島村と加倉井村は江戸時代は旗本領であった。
 これら村のうち、大塚村・金谷村・飯島村の三村は第一大区第六小区、加倉井村は現在の内原町内の大部分と共に第五大区第三小区に属した。これが明治十五年には、同二十年新村構成と同じ村によって、金谷村連合村となる。ところが、明治十七年には加倉井村が大足村連合村に入り、他は河和田村連合村に編入されている。

加倉井村絵図(市内、薗部一郎氏所蔵)



金谷村絵図(金谷区有文書)


現水戸市内の文化年間の村
村名戸数東西南北
常葉42334町24町
袴塚82924
見和821910
    
見川986(18)22(30)
富沢2699
千波621817
    
福沢31322
小吹481620
笠原403029
    
平須461919
浜田29--
細谷1283456
    
吉沼971210
渋井31713
東大野42710
    
西大野30128
圷大野32613
中大野43311
    
762218
圷渡781916
台渡521715
    
田野842821
青柳137916
西蓮寺511910
    
中河内84257
上河内2753
吉田1852034
    
古宿25717
米沢31322
木沢2468
    
茂沢22515
東野24129
谷田36914
坂戸町付67913
谷田町付
坂戸4869
石川801725
    
赤塚47183
河和田13717111
岩根92814
    
飯富16012.830
藤井1031616
田谷116626
    
上国井1122312
下国井1122125
成沢762620
    
木葉下233218
三ケ野8158
全隈301816
    
谷津362319
開江841516
中丸16127
萱場311017




赤塚地区 町名と戸数
(昭和34年7月1日)
地区・町名戸数
赤塚河和田町783
萱場町71
飯島町88
金谷町45
大塚町257
中丸町56
加倉井町183
開江町165
谷津町82
全隈町103
木葉下町86
赤塚町666
2,585