住居表示と町名・町区画合理化

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 昭和三十七年に、「住居表示に関する法律」が公布された。それは地名と地番が、現在の生活に適合せず、日常生活にとって土地の目標物になり得なくなったことから考えられたものという。
 町区域が、市街地の拡大や複雑化で不明になったり、その細分化によって通称をもとに町名が新たにつくられたり、町に関する表示が混乱したこと。また番地は、明治六年の地租改正時に付けられた地番に始まり、不動産登記法で土地の表示に使用され、明治三十一年の戸籍法改正で本籍の表示に転用されて番地となった。このため番地は、もともと住居の表示用ではなく、土地の離合集散(分筆や合筆)によって新設されたり消滅したりするもので、不適であるのは当然のこととしている。
 これらの解決策として、市街地を一定の大きさに区切って、そのなかの家屋に順に番号をつけることが考えられた。これが土地ではなく住居にということから、住居表示といわれる方法なのである。この市街地区分の方式にも、「街区方式」と「道路方式」とがあり、水戸市の場合は「街区方式」を採用している。
 旧町区域とは関係なく、公道や河川・鉄道などをもとに、商業地区は約六万六千平方メートル、住宅地区は約九万九千平方メートルの区域を新町の区画として統一的に設定した。この町の名称は、新たに現代かなづかい、当用漢字で、簡単で語調がよく、好感のある親しみやすいものを基準に、歴史情況を参考として選定したという。しかも町名の数を制限したため、数字による丁目の名称を多く使用することになった。水戸市の場合は、市街地の中心を国鉄水戸駅と見て、ここから外側に丁目の数字が多くなるように配列している。
 以上の町区・町名改正作業について関係者は、「祖先の遺業をつぶすことではなく、水戸市の将来の発展のため」、「私達の子孫が社会生活を営むにあたって、無駄の少ない良い生活が出来るような土台を築いた」と結論付けている。が、それは住民の考え方、利用の仕方に関係する問題を含むものであり、その評価は歴史が証明する。このような問題は、決定そして固定、または完全な終了ではなく、今後も少々の混乱は恐れずに機会あるごとに検討を加え、常に最良の地域表示の手段を模索してもらいたい。それが、自然発生的にそして合理的に形成された町区域と町名称を無理に整理して、人為的に作りあげた現代人の責務と思われる。この問題は、一度手をつけたら永遠に模索し、市民生活との一致を求めて改善していくことが必要であろう。
 水戸市の住居表示事業は、次のように昭和四十一年から七回実施され、一六四の旧町名が整理の対象になっている。
 
 住居表示実施にともなう町名及び町区画の変更表
 
第一回 昭和四十一年四月一日施行
新町名旧町名
三の丸(さんのまる)一丁目大手町の一部、南三ノ丸の一部、柵町一丁目の一部、柵町二丁目の一部、柵町三丁目の一部、北三ノ丸の一部
三の丸二丁目柵町三丁目の一部、大手町の一部、北三ノ丸の一部
宮町(みやまち)一丁目(一部)柵町二丁目の一部、柵町三丁目の一部、銀杏町の一部、宮下の一部
宮町二丁目柵町一丁目の一部、柵町二丁目の一部、柵町三丁目の一部、銀杏町の一部、宮下の一部、南三ノ丸の一部、奈良屋町の一部
宮町三丁目奈良屋町の一部、黒羽根町の一部、下梅香の一部
梅香(ばいこう)一丁目梅香の全部、下梅香の一部、黒羽根町の一部、藤沢小路の一部、常磐町の一部、大坂町の一部
梅香二丁目大坂町の一部、鷹匠町の一部、幸町の一部、鈴坂町の一部、藤沢小路の一部
南町(みなみまち)一丁目奈良屋町の一部、黒羽根町の一部、南三ノ丸の一部、南町の一部、仲町の一部、元白銀町の一部
南町二丁目藤沢小路の一部、黒羽根町の一部、裡南町の一部、南町の一部、仲町の一部
南町三丁目南町の一部、鷹匠町の一部、裡南町の一部、藤沢小路の一部、仲町の一部、西町の一部、鈴坂町の一部、幸町の一部
大町(おおまち)一丁目北三ノ丸の一部、元白銀町の一部、田見小路の一部、仲町の一部、大町の一部
大町二丁目仲町の一部、大町の一部、田見小路の一部
大町三丁目大町の一部、仲町の一部、田見小路の一部、西町の一部
北見町(きたみちょう)北三ノ丸の一部、霞町の一部、田見小路の一部
五軒町(ごけんちょう)一丁目(一部)西町の一部、鉄砲町の一部
金町(かねまち)一丁目霞町の一部、西町の一部、鉄砲町の一部
泉町一丁目(一部)鉄砲町の一部、西町の一部、南町の一部
 
第二回 昭和四十二年六月一日施行
新町名旧町名
金町二丁目霞町の一部、桜町の一部、上金町の一部、根本町の一部
金町三丁目寺町の全部、根本町の一部、下金町の一部、桜町の一部
五軒町一丁目(一部)鉄砲町の一部、裡五軒町の一部、上金町の一部、五軒町の一部
五軒町二丁目上金町の一部、五軒町の一部、裡五軒町の一部
五軒町三丁目撞木町の一部、下金町の一部、長町の一部、藤坂町の一部、信願寺町の一部
栄町(さかえちょう)一丁目(一部)並松町の一部、長町の一部、栄町一丁目の一部、栄町二丁目の一部、信願寺町の一部、撞木町の一部
栄町二丁目(一部)下金町の一部、並松町の一部、長町の一部、栄町三丁目の一部、馬口労町の一部
泉町(いずみちょう)一丁目(一部)鉄砲町の一部、裡五軒町の一部、泉町の一部、幸町の一部、備前町の一部、天王町の一部、新鳥見町の一部
泉町二丁目五軒町の一部、裡五軒町の一部、荒木町の一部、泉町の一部、新鳥見町の一部、鳥見町の一部、天王町の一部
泉町三丁目裡五軒町の一部、荒木町の一部、藤坂町の一部、泉町の一部、信願寺町の一部、裡信願寺町の一部、鳥見町の一部
大工町(だいくまち)一丁目大工町の全部、信願寺町の一部、栄町一丁目の一部、鳥見町の一部、裡鳥見町の一部、向井町の一部、裡信願寺町の一部、元山町の一部、泉町の一部
大工町二丁目(一部)向井町の一部、寿町の一部、新大工町の一部
備前町(びぜんまち)幸町の一部、釜神町の一部、神崎町の一部、天王町の一部、備前町の一部、常磐町の一部
天王町(てんのうちょう)天王町の一部、鳥見町の一部、裡鳥見町の一部、神崎町の一部、釜神町の一部、常磐町の一部、元山町の一部
元山町(もとやまちょう)一丁目向井町の一部、新大工町の一部、寿町の一部、元山町の一部
元山町二丁目元山町の一部
常磐町(ときわちょう)一丁目常磐町の一部、元山町の一部
常磐町二丁目常磐町の一部、元山町の一部
 
第三回 昭和四十三年五月一日施行
新町名旧町名
松本町(まつもとちょう)松本町の一部
八幡町(はちまんちょう)八幡町の全部、根本町の一部、松本町の一部
末広町(すえひろちょう)一丁目馬口労町の一部、梅小路の一部、桃小路の一部、柳小路の一部
末広町二丁目馬口労町の一部、松本町の一部、谷中の一部
末広町三丁目(一部)谷中の一部、松本町の一部、西原町の一部
上水戸(かみみと)一丁目西原町の一部
上水戸二丁目(一部)西原町の一部
上水戸三丁目(一部)上水戸町の一部、西原町の一部
新荘(しんそう)一丁目砂久保町の一部、北町の一部、楓小路の一部
新荘二丁目砂久保町の一部、楓小路の一部、桐小路の一部
新荘三丁目常磐小路の全部、柏小路の全部、花小路の全部、桜小路の一部、松小路の一部、柳小路の一部、桃小路の一部、桐小路の一部、砂久保町の一部
栄町一丁目(一部)栄町二丁目の一部、栄町一丁目の一部、北町の一部、楓小路の一部
栄町二丁目(一部)栄町三丁目の一部、下金町の一部、馬口労町の一部、松小路の一部、桜小路の一部、梅小路の一部
大工町二丁目(一部)栄町一丁目の一部、北町の一部、向井町の一部、砂久保町の一部
大工町三丁目久保町の全部、向井町の一部、東町の一部、木ノ折町の一部、寿町の一部
緑町(みどりちょう)一丁目木ノ折町の一部、元山町の一部、寿町の一部
緑町二丁目東町の一部、木ノ折町の一部、元山町の一部
緑町三丁目(一部)東町の一部、東原町の一部、見和町の一部、元山町の一部
東原(ひがしはら)一丁目東町の一部、砂久保町の一部、東原町の一部
東原二丁目東原町の一部、西原町の一部
東原三丁目東原町の一部、西原町の一部
 
第四回 昭和四十四年五月一日施行
新町名旧町名
愛宕町(あたごちょう)愛宕町の一部、松本町の一部
文京(ぶんきょう)一丁目愛宕町の一部、渡里町の一部、袴塚町の一部
文京二丁目渡里町の一部
末広町三丁目(一部)松本町の一部、谷中の一部、袴塚町の一部、愛宕町の一部
上水戸二丁目(一部)上水戸町の一部、西原町の一部
上水戸三丁目(一部)上水戸町の一部、南袴塚町の一部、袴塚町の一部
上水戸四丁目南袴塚町の一部、西原町の一部
袴塚(はかまつか)一丁目袴塚町の一部、愛宕町の一部
袴塚二丁目袴塚町の一部
袴塚三丁目袴塚町の一部、渡里町の一部
曙町(あけぼのちょう)曙町の全部、袴塚町の一部
新原(しんはら)一丁目新原町の一部、石川町の一部、堀町の一部、袴塚町の一部
新原二丁目袴塚町の一部、堀町の一部、新原町の一部
西原(にしはら)一丁目西原町の一部、東原町の一部
西原二丁目西原町の一部、石川町の一部
西原三丁目西原町の一部
自由が丘(じゆうがおか)西原町の一部
松が丘(まつがおか)一丁目石川町の一部、西原町の一部
松が丘二丁目石川町の一部、西原町の一部
緑町三丁目(一部)東原町の一部
 
第五回 昭和四十五年五月一日施行
新町名旧町名
宮町一丁目(一部)柵町の一部、裏柵町の全部、柵町三丁目の一部、宮下の一部、柵町五丁目の一部、奈良屋町の一部、銀杏町の一部、柵町四丁目の一部
三の丸三丁目柵町の一部、柵町三丁目の一部、柵町四丁目の一部、渋田の一部、柵町五丁目の一部、北三ノ丸の一部、川岸通の一部、三光町の一部
城東(じょうとう)一丁目川岸通の一部、浮町の全部、一ノ町の一部、細谷門前の一部、渋田の一部、明星町の一部、三光町の一部、北三軒町の一部、宝鏡院門前の一部、川崎町の一部、荒神町の一部、二ノ町の一部、柵町の一部、細谷町の一部、東柵町の一部
城東二丁目赤沼町の一部、川岸通の一部、代官町の全部、川崎町の一部、馬場の全部、二ノ町の一部、三ノ町の一部、荒神町の一部、宝鏡院門前の一部、蘋町の一部
城東三丁目蓮池町の一部、若宮町の一部、元仲ノ町の一部、赤沼町の一部、新町の一部、浜田町の一部
城東四丁目蘋町の一部、赤沼町の一部、花畑の全部、蔵前の一部、蔵脇の一部、立浪町の一部、川岸通の一部
城東五丁目新町の一部、蔵前の一部、蔵脇の一部、細谷本郷町の一部、細谷町の一部、若宮町の一部
 
第六回 昭和五十一年二月一日施行
新町名旧町名
宮町一丁目(一部)奈良屋町の一部、下梅香の一部
桜川(さくらがわ)一丁目奈良屋町の一部、常磐町の一部、水戸市(駅南)の一部
桜川二丁目水戸市(駅南)の一部
柵町(さくまち)一丁目水戸市(駅南)の一部、柵町五丁目の一部、柵町六丁目の一部
柵町二丁目柵町五丁目の一部、柵町六丁目の一部、東柵町の一部、北三ノ丸の一部、柵町の一部、明星町の一部、北三軒町の一部
柵町三丁目東柵町の一部、東青柳町の一部、一ノ町の一部、荒神町の一部
中央(ちゅうおう)一丁目千波町の一部
中央二丁目千波町の一部
城南(じょうなん)一丁目千波町の一部、水戸市(駅南)の一部
城南二丁目千波町の一部、水戸市(駅南)の一部、元吉田町の一部
城南三丁目水戸市(駅南)の一部、元吉田町の一部
白梅(しらうめ)一丁目千波町の一部、元吉田町の一部
白梅二丁目千波町の一部、元吉田町の一部
白梅三丁目元吉田町の一部、藤柄町の一部、吉田の一部
白梅四丁目水戸市(駅南)の一部、東柵町の一部、高橋町の全部、藤柄町の一部、吉田の一部、紺屋町の一部
柳町(やなぎまち)一丁目柵町六丁目の一部、水戸市(駅南)の一部、轟町の一部、根積町の一部、水門町の一部
柳町二丁目轟町の一部、水門町の一部、横竹隈の全部、竹隈町の一部
本町(ほんちょう)一丁目根積町の一部、七軒町の全部、本一町目の全部、本二町目の全部、裡一町目の全部、裡二町目の全部、江戸町の全部、檜物町の一部
本町二丁目本三町目の全部、本四町目の全部、檜物町の一部、裡三町目の全部、裡四町目の全部、肴町の全部、三間町の全部、青物町の一部、清水町の全部、浜町の全部、浜田町の一部
 
第七回 昭和五十五年二月一日施行
新町名旧町名
東台(ひがしだい)一丁目竹隈町の一部、東台の全部、十軒町の一部、白銀町の一部、三ノ町の一部
東台二丁目十軒町の一部、荒神町の一部、赤沼町の一部、鍛冶町の一部、曲尺手町の一部、元仲ノ町の一部、八町目の一部、三ノ町の一部
東桜川(ひがしさくらがわ)元仲ノ町の一部、九町目の一部、十町目の全部、新町の一部、蓮池町の一部、浜田町の一部
本町三丁目竹隈町の一部、白銀町の一部、鍛冶町の一部、曲尺手町の一部、八町目の一部、本五町目の全部、本六町目の全部、本七町目の全部、裡五町目の全部、裡六町目の全部、裡七町目の全部、青物町の一部、塩町の全部、銭谷前の全部、材木町の全部、浜田町の一部
浜田(はまだ)一丁目浜田町の一部、酒門町の一部
浜田二丁目八町目の一部、九町目の一部、浜田町の一部、酒門町の一部
若宮(わかみや)一丁目浜田町の一部、若宮町の一部
若宮二丁目若宮町の一部、細谷本郷町の一部

 
 町名・町区画合理化実施にともなう町名及び町区画の変更
 
 町名・町区画の合理化は、旧市街地内ではなく、新しく市街地化しつつある周辺地区についての問題であった。町ではなかった所に住宅地が出来たため、行政関係の台帳と通称とで大変な相違が出来たり、その区域が明確ではなく繁雑となり、日常生活や行政事務も混乱することが多くなったことから考えられたものである。
 方法は、住居表示と同じように道路や河川などを境界として、町の大きさを均一化した町区画を明確にすること。その町名も住居表示と同一基準で、新たに選定することになる。ただ、これらの地域は、完全な市街地ではなく、住居の連続性が見られないため、住居表示のように住宅に順に番号を付けることは不可能で、個々については地番を利用している。水戸市の場合、この関係は次のように昭和四十六年から五回実施され、一四の旧町名区域が対象となって合理化された。
 なお、この書は住居表示区域内を主な対象として記録した。町名・町区画の合理化地区については、町名の記録もほとんどないためその大部分は新旧町区画を図化するだけにした。
 
第一回 昭和四十六年五月一日施行
新町名旧町名
根本(ねもと)一丁目霞町の一部、根本町の一部
根本二丁目根本町の一部、霞町の一部
根本三丁目根本町の一部
根本四丁目根本町の一部
ちとせ一丁目松本町の一部、根本町の一部
ちとせ二丁目松本町の一部、渡里町の一部
 
第二回 昭和四十七年五月一日施行
新町名旧町名
石川(いしかわ)一丁目石川町の一部
石川二丁目石川町の一部
石川三丁目石川町の一部、赤塚町の一部
石川四丁目石川町の一部
東赤塚(ひがしあかつか)赤塚町の一部、石川町の一部
 
第三回 昭和五十年六月一日施行
新町名旧町名
赤塚(あかつか)一丁目赤塚町の一部、河和田町の一部、石川町の一部
赤塚二丁目赤塚町の一部、河和田町の一部、中丸町の一部
河和田(かわわだ)一丁目赤塚町の一部、河和田町の一部
河和田二丁目河和田町の一部、大塚町の一部
河和田三丁目河和田町の一部
姫子(ひめご)一丁目赤塚町の一部、見和町の一部、石川町の一部
姫子二丁目赤塚町の一部、見和町の一部
見和(みわ)一丁目見和町の一部
見和二丁目見和町の一部
見和三丁目見和町の一部、赤塚町の一部、河和田町の一部
見川(みがわ)一丁目見川町の一部、見和町の一部、元山町の一部
見川二丁目見川町の一部、見和町の一部
見川三丁目見川町の一部
見川四丁目見川町の一部
見川五丁目見川町の一部、見和町の一部、河和田町の一部
 
第四回 昭和五十一年十一月二日施行
新町名旧町名
双葉台(ふたばだい)一丁目大塚町の一部、中丸町の一部
双葉台二丁目大塚町の一部、中丸町の一部、開江町の一部
双葉台三丁目開江町の一部
双葉台四丁目大塚町の一部、中丸町の一部、開江町の一部
 
第五回 昭和五十三年二月一日施行
新町名旧町名
双葉台一丁目(一部)大塚町の一部
双葉台四丁目(一部)中丸町の一部、開江町の一部
双葉台五丁目開江町の一部、堀町の一部

 
 駅南区画整理事業
 
 昭和六十年現在ビルの林立する通称駅南地区は、大正十年末までは千波湖の一部として、満々たる水を湛え、水戸城の外濠の名残を止めていた。千波地区の住民は小舟を使って上・下市と往来するという生活の不便もあったが、反面季節の魚貝類や草藻などを採って利益を得ており、当時の千波湖の総面積は約一三〇ヘクタールで、約六五ヘクタールを上沼、約五四ヘクタールを下沼、約一一ヘクタールを内堀と称し、貯水量も多く、下流耕地の用水源として充分に役割を果たしていた。
 大正十年、茨城県によって千波湖干拓事業が施行される事となり、当時の千波湖の約三分の二を干拓して耕地にする計画が決定し、同十一年一月に起工、まずこの事業の要となる柳堤水門が同年八月に完成され、約九〇ヘクタールの水田がここに生まれる事になった。
 しかし食糧増産の時代は過ぎ去って高度経済成長期に入り、水戸市域の市街地拡大化の需要に応じ、昭和三十九年に水戸市が事業主体となって、水戸勝田都市計画駅南土地区画整理事業を発足させ、同地区総面積九七・四七ヘクタールを埋立てて市街地にする計画で工事を開始し、同四十六年にほぼ工事がととのった。同四十七年九月には市庁舎も同所に移り、五十二年にこの事業は完了した。
 沼から水田、水田から市街地へと大きく変化、発展したことは、水戸の歴史的な見地からすれば、寛永初期に行なわれた市街地の拡張工事〝田町越〟と同様に、水戸の町の二大変革事業という事が出来る。