宮町一丁目
宮下(みやした)
宮下は、常磐山東照宮にゆかりがあるところから付けられた町名で、以前は御宮下町ともいわれた。東照宮の門前にあたり、南北に通じ、東は銀杏町に、西は奈良屋町に、北は南三ノ丸に隣接していた。
この地は、もともとは町家も無くて、松並木などがあり、柵町へ通ずる大道だった。その後、元和七年(一六二一)に東照宮を祀ってからは人家も出来、寛永十六年(一六三九)ごろに小倉庄兵衛屋敷の前から御宮の下虎口の間に町屋敷が作られた。天保年間の「水戸上下御町丁数調書」では、間数が一三二間で、家数は二三軒となっている。
この町と奈良屋町・和正院(わしょういん)町の三町のうちから、末端行政を担当する町人の代表としての名主一人が選ばれた。
この地にある東照宮は、元和七年初代藩主頼房が徳川家康をまつり、日光の廟にならい創建したもので、宮地はもと霊松山と唱えていたが、二代藩主光圀が元禄十二年(一六九九)に常磐山と改めた。毎年四月十五日から十七日まで行なわれる東照宮の祭礼は城下最大の賑わいで、関東地方でも名高く、明和二年(一七六五)の祭礼には、例年以上に町々から趣向を凝らした踊り、屋台が繰り出し賑わったという記録がある。
明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には宮下連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市宮下となった。
昭和四年には、この町に井戸の数が一五あった。
宮下は、東照宮を中心とする北側は昭和四十一年四月に宮町二丁目となり、水戸駅構内になる南側は昭和四十五年五月に宮町一丁目となっており、この地は東照宮門前を中心に飲食店街である。
天保期の宮下,下梅香
文政7年の宮下
昭和初期の東照宮(瓜連町、斎藤巌氏所蔵)
下梅香(しもばいこう)
下梅香に隣接する町は、東と南が奈良屋町、西が常磐町、北が梅香となっていた。町名の由来、はじまりとなるとはっきりしないが、北に接している梅香を上梅香とも言ったことから、それに対して、台地南端のこの地を下梅香と呼んだらしく、元禄三年(一六九〇)に、本間与衛門前より大石八太夫前までを下梅香と改称したとある。この一帯は正保・慶安ころまでは山林であったが、それでも、慶安四年(一六五一)には梶又左衛門の屋敷が存在している。その後、寛文年間に筧、大石、川目、飛田、本間などの各氏がこの地に移り住み、寛政九年(一七九七)には、八軒の武家屋敷がかぞえられる。
明治八年に第一大区第一小区となった。
大正十五年には、この町に井戸の数が二九、昭和四年には一五あった。
下梅香は、旧国道六号の北側は昭和四十一年四月に梅香一丁目、宮町三丁目となり、旧国道六号の南側は昭和五十一年二月に宮町一丁目、桜川一丁目となった。
裏柵町(うらさくまち)
裏柵町に隣接する町は、東と南が柵町、西が銀杏町、北が柵町二丁目・柵町三丁目となっていた。
この町そのものに関しての史料は見当たらない。柵町の裏にあたるために名付けられた町名である。
裏柵町は、昭和四十五年五月に宮町一丁目となっており、水戸駅構内の中で、水戸駅南口への通路の下にあたる。