三の丸一丁目

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三の丸一丁目


大手町(おおてまち)
 大手町は、昭和九年五月二十日に北三ノ丸の一部から新設された町である。一般にその名称から旧城郭の一部大手門の町と誤解され、古くからの町と思われがちである。
 北三ノ丸の中を明治以後国道となった陸前浜街道が通り抜けていたが、大手町となった所はその周辺であって、二ノ丸への入口の大手門から弘道館へいたる大手橋の下に当たり、町そのものに関しては、記録らしいものは残っていない。
 寛政九年(一七九七)には、この地に一軒の武家屋敷がかぞえられる。
 大手町に隣接する町は、東と西と北は北三ノ丸、南は柵町二丁目・柵町三丁目であった。
 大手町は、昭和四十一年四月に三の丸一丁目、三の丸二丁目となっており、この地を旧国道六号が走っている。
南三ノ丸(みなみさんのまる)
 三ノ丸は東西に走る二本の道路によって、北三ノ丸・中三ノ丸・南三ノ丸の三つに区画される。南三ノ丸は、中三ノ丸との間を東西に通ずる道路の南側にあり、この道の西端の郭門は三ノ丸南御門と呼んでいたが、元禄三年(一六九〇)に三ノ丸南ノ見付と改められた。
 この地は佐竹義宣の時代には、一部家臣の屋敷になっていたらしいが、徳川氏の時代になってからは、四三間と五三間の屋敷を南に通ずる銀杏坂(現在の京成ホテル脇)の東に置き、その西は一一二間と五一間の屋敷地を三つに割った。寛文年間には、松平采女(三千石)、松平左門らの重臣の屋敷があり、安永五年(一七七六)十二月には、大町からの出火によって延焼し被害を受けている。その後寛政九年(一七九七)には、五軒の武家屋敷があった。

天保期の南三ノ丸


 城内および城下の人の往来を取り締まるために、城門以外の重要な場所に柵が設けられたが、南三ノ丸銀杏見付を下る銀否坂の入口にも柵があり、更にはこれらの柵を入ったところに、番所が設けられていた。
 明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には宮下連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市南三ノ丸となった。
 昭和四年には、この町に井戸の数が三七あった。
 南三ノ丸に隣接する町は、東が大手町、西が元白銀町・南町・奈良屋町、南が柵町一丁目・柵町二丁目・銀杏町・宮下、北が北三ノ丸となっていた。
 南三ノ丸は、昭和四十一年四月に、三の丸一丁目、宮町二丁目、南町一丁目となっており、この地には、自治会館、水戸郵便局、水戸鉄道管理局、水戸警察署、茨城県中央児童相談所があって、かつては水戸市役所もここ(南三ノ丸一〇五)にあった。もと市役所のあった所は、大正三年から四年にかけて柵町の南にあった堀を埋め立てるため土を取った跡を造成した場所で、大正七年に木造の建物が出来、市役所が柵町より移転した。それも昭和二十年八月二日の空襲で焼失し、一時仮庁舎が建てられた。戦後の新庁舎は、その後の昭和二十九年三月に着工され同三十年六月に竣工した。しかし、市行政機構の拡大につれて同四十一年には四、五階を増築し、また同四十三年八月にも北側庁舎四階を新築するなどしたが、この地だけでは市庁舎として狭く限界があり、特に自動車交通の発達によって、駐車場などにする空地面積の不足から、南三ノ丸庁舎の放棄が決定され、たまたま進行中の駅南区画整理事業の中の一地区に新築移転することになった。昭和四十六年三月に千波町一〇〇三の一三(現在中央一丁目四番一号)に新庁舎の建築が着工され、同四十七年八月に完成し、同年九月に移転した。こうして市役所南三ノ丸の時代は五十五年間で終わった。

大正10年ごろの水戸郵便局から三の丸小学校への道路(市内、赤須常夫氏所蔵)



大正7年に新築された水戸市役所(茨城県興隆誌より)



昭和30年代の水戸市役所