南町一丁目
南町(みなみまち)
南町は、佐竹氏在城の時に開かれた町で、町人が多く住んでいた。町の名称は、城下町の南部にあったところから付けられたらしい。寛永初年の「田町越(たまちごえ)」で、大町、仲町、南町などの町人を下町の田町に移し、その後南町は武家屋敷と変わった。
また、この地には、円雲院(えんうんいん)・福壽院(ふくじゅいん)・若宮坊(わかみやぼう)などの寺院もあったが、慶長六年(一六〇一)五月に泉町に移され、その跡も武家屋敷になった。
南町の北側は元白銀町の並びにほぼ等しく、南側は長方形の片側屋敷割で、東は東西一二〇間半と二七間、西では六〇間と二八間となっており、寛政九年(一七九七)には、三六軒の武家屋敷がかぞえられる。なお大町、南町を中心とする紀州堀以東の地の武家屋敷は、寛文年間の一六八軒から、天保年間には二二一軒に増加している。
元禄九年(一六九六)一月には、新木町(のちの下金町)からの出火によって延焼し、大きな被害を受けたこともあった。
また天保年間、この町には、「新論」を著した会沢安(やすし)(正志斎)の私塾(南街塾)が開かれていた。
明治になって、屋敷町のなかでも交通条件が良かったので商店の開設が多くなり、水戸の中心的商業町となった。明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には田見小路連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市南町となった。
南町通り(絵葉書より)
南町通り(絵葉書より)
大正10ごろの南町通り(瓜連町,斎藤巌氏所蔵)
大正十五年には、この町に井戸の数が七五、昭和四年には三三あった。
昭和5年ごろの南町通り(毎日新聞社水戸支局所蔵)
昭和9年ごろの南町通り(毎日新聞社水戸支局所蔵)
南町に隣接する町は、東が元白銀町・南三ノ丸、西が鉄砲町・幸町、南が奈良屋町・黒羽根町・裡南町・鷹匠町、北が仲町・西町であった。
南町は、昭和四十一年四月に南町一丁目、南町二丁目、南町三丁目、泉町一丁目となっており、この地は、国道五〇号に沿って各種金融機関をはじめとして大型の専門化した商店が立ち並び水戸市のメインストリートとなっている。
現在の南町通り(南町1丁目)