大町二丁目
大町(おおまち)
大町(御町と呼ばれたこともあったが、いつの頃からか大町となった)は、佐竹氏が城郭の拡大を図って城下町を整備した時に開かれた町で、仲町・南町などと共に商人が住んでいた。
寛永初年の「田町越」で、佐竹氏時代から城郭の前に開けていたこれらの町人は、下町の田町に移された。また同じころに大町・仲町の商家は上金町にも移され、その後、大町は武家屋敷となった。
またこの地には眞成院(しんじょういん)・玉蔵院(ぎょくぞういん)・善授院(ぜんじゅいん)などの寺院があったが、寛永二年(一六二五)眞成院は材木町に、玉蔵院は金町に、善授院は鍛冶町に移され、その跡地も武家屋敷になった。
大町の東側は東西一四一間半、南北七一間の矩形で、北御門の鉤形路の南に片側三一間張り出している。西側は東西九二間、南北六五間であった。
安永五年(一七七六)には大町から出火し、西風に煽られて、北三ノ丸、大手前下馬、城内稲魂社、南角櫓、上使屋敷、南三ノ丸、柵町別館、細谷河岸、紺屋町など周辺の町まで延焼し、大きな被害を出したこともあり、寛政九年(一七九七)には、二九軒の武家屋敷がかぞえられる。
天保期の大町
明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には田見小路連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市大町となった。
大正十五年には、この町に井戸の数が二九、昭和四年には三三あった。
大町に隣接する町は、東は元白銀町、西は西町、南は仲町、北は田見小路となっていた。
大町は、昭和四十一年四月に大町一丁目、大町二丁目、大町三丁目となっており、この地には、明治三十三年の春に弘道館内に創立された水戸高等女学校の後身である県立水戸第二高等学校やNTT水戸電報電話局などがある。また、明治二十九年から昭和二十年の終戦まで、現在の水府病院の場所に水戸連隊の司令部があった。
明治40年ごろの水戸高等女学校(明治40年特別大演習記念写真帖より)