梅香一丁目
梅香(ばいこう)
梅香は、居住者の名を町名としたもので、佐竹氏の家臣岡本禅哲(ぜんてつ)は、太田在住のころから梅花を愛し、宅地に梅樹数十株を植え梅香斎と号していた。佐竹氏の水戸入城と共にこの町に移り、梅樹を植えて楽しんだことから、梅香の町名が起こったといわれている。
なお、下梅香と区別するため上梅香と呼ばれたこともあった。
梅香に隣接する町は、東が奈良屋町・下梅香、西が大坂町、南が常磐町、北が藤沢小路・黒羽根町であった。
慶長十一年(一六〇六)、この地に南龍公養珠院太夫人(なんりょうこうようじゅいんたいふじん)の母知光院のために本法寺(ほんぽうじ)(日蓮宗)が建立されたが、元和二年(一六一六)には桜町へ移され、同じくこの地にあった藤福寺(とうふくじ)(真言宗)も移された。寛永二年(一六二五)以後にその跡地は武家屋敷となった。
台地南端に位置している梅香の屋敷割りは不規則で、藤沢小路に面した部分が一一六間、奥行は四〇間内外で、寛政九年(一七九七)には、ここに一二軒の武家屋敷がかぞえられる。
天保期の梅香
現在、水戸市中央公民館の敷地は、寛政八年に藤田一正(幽谷)が藩から与えられた屋敷地で、子の彪(東湖)は文化三年(一八〇六)にこの地で生まれており、同所に碑が立てられ、水戸市指定文化財となっている。幽谷は「大日本史」の編纂に従事するかたわら、享和二年(一八〇二)からこの自宅に私塾青藍舎(せいらんしゃ)を開いて門弟の教育にあたり、子の東湖をはじめ、会沢安(やすし)(正志斎)、豊田亮(天功)など多くの門人を育てた。
明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には宮下連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市梅香となった。
大正十五年には、この町に井戸の数が二九、昭和四年には二六あった。
梅香は、昭和四十一年四月に梅香一丁目となっており、この地には、水戸市中央公民館、農協会館がある。
旧梅香(梅香1丁目)
藤沢小路(ふじさわこうじ)
藤沢小路は古くより開け、西隣りの鷹匠町と共に、神生平(かのうたいら)と称されていた。建長二年(一二五〇)、応永十二年(一四〇五)の吉田神社文書にも、社頭神生村とあり、江戸氏の庶流にも神生氏を称した者がいる。
天正十八年(一五九〇)、佐竹氏が水戸城を攻めた時に、那珂川を渡って城郭の搦手に進攻するため、この神生平を通っている。
小田原にあった北条氏が没落した時に、藤沢遊行寺も兵火に遭い、住僧の他阿上人は佐竹氏の出身という俗縁をもとに、天正十九年、この神生平の地に一寺を建立し、旧名にちなんで藤沢山神応寺(時宗)と名付けた。それ以後、藤沢小路が町名となった。すなわち寺院名にゆかりのある町名である。
この地には、神応寺の外にも、信願寺(しんがんじ)(浄土真宗)、善徳寺(ぜんとくじ)(浄土宗、慶長八年城主であった武田信吉が没すると、その葬儀はこの寺で行なわれ、境内に一寺を建てて浄鑑院(じょうがんいん)と号した)、不断院(ふだんいん)(真言宗)などの多くの寺院が見られた。信願寺は天正十八年に寺町へ、善徳寺も元和二年(一六一六)に寺町へ、不断院は寛永元年(一六二四)に裏鳥見町へ、神応寺は延宝八年(一六八〇)に上町外堀の西側(後の元山町)に移され、その跡地は武家屋敷となり、東西は一二六間半、南北は七〇間であった。
元禄九年(一六九六)一月には、新木町(後の下金町)からの出火によってこの町も延焼し、大きな被害を受けている。
その後寛政九年(一七九七)には、二〇軒の武家屋敷がかぞえられる。
安政期の藤沢小路
藤沢小路に隣接する町は、東が黒羽根町、西が鷹匠町、南が梅香・大坂町、北が裡南町であった。
明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には宮下連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市藤沢小路となった。
大正十五年には、この町に井戸の数が三〇、昭和四年には三八あった。
藤沢小路は、昭和四十一年四月に南町二丁目、南町三丁目、梅香一丁目、梅香二丁目となった。