梅香二丁目

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梅香二丁目


大坂町(おおさかちょう)
 大坂町は、台地の南端に位置していた町で、北は藤沢小路、東は梅香、西は鷹匠町・鈴坂町に接し、南の崖下は常磐町になっていた。
 安政年間の水戸城下図によると、台地上の紀州堀と奈良屋町・元白銀町の堀との間には、東西方向に走る道路は田見小路・大町・仲町・南町・裏南町・藤沢小路・梅香の七本があり、それらを南北方向で結びつけた直線上の道路は、太田街道から現在の県立水戸第二高等学校の北西角に登って来る大坂(現在北見町)より、台地の南端に位置する梅香一丁目のときわ荘(公立学校共済組合水戸宿泊所)までの一本で、かつては袋道になっていた所まで続いていた。この南北方向直線道路の西側にある西町より鷹匠町の通りや東側にある黒羽根町通り、元白銀町通りは、かつては現在のような完全な連結のある直線道路ではなかった。このように、上町台地上に直接出入する大坂(相坂の文字も使用され、七曲(ななまが)り坂とも呼ばれた)の延長上にある特別な通りのため、この南北方向直線道路に接した一帯は大坂町と呼ばれた。

安政期の大坂町



大坂町の起源の坂(北見町)


 ところが、この道路の北部で大坂に近い所は、佐竹氏時代にその氏神である八幡宮が太田より遷されて八幡小路と呼ばれ、その後徳川氏時代には、そこに別館が設けられ田見御殿と称されたことにより田見小路と呼ばれた。そのため大坂町と呼称される区域は縮小し、北部では西町側にだけ大坂横宿の名が残るだけとなった。こうして、昭和七年発行の「水戸上下市街略図」や大正七年四月発行の「水戸市全地図」では、大坂町は、田見小路を除いた大町・仲町・南町・裏南町・藤沢小路・梅香の東西方向に走る道路を分断する南北方向の町として表示されている。
 しかし、明治以来水戸上町の交通状況は那珂川を利用したものから台地上の陸上中心となり、東西方向を指向するようになる。そこで大坂の機能は衰え、大坂町通りは東西方向に走る仲町・南町などの商業機能の充実に圧倒され、前記のような台地南端の袋状町だけの名称に圧縮されてしまった。
 明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には宮下連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市大坂町となった。
 大正十五年には、この町に井戸の数が八、昭和四年には三八あった。
 大坂町は、昭和四十一年四月に梅香一丁目、梅香二丁目となった。
鷹匠町(たかじょうまち)
 鷹匠町に隣接する町は、東が藤沢小路・大坂町、西と南が鈴坂町、北が南町・裡南町となっていた。
 この地は、もと神生平(かのうたいら)の一部で、寺院が多く、善重寺(ぜんじゅうじ)(浄土真宗、江戸氏が天正十四年に再興)、妙雲寺(みょううんじ)(日蓮宗)、蓮乗寺(れんじょうじ)(日蓮宗、武田信吉が慶長八年に下総より移した)などがあった。元和二年(一六一六)、それらの寺院を寺町などに移して跡地は鷹部屋とし、鷹師を住まわせた。そのために鷹匠町と呼ばれるようになったが、それもやがて神応町と称するようになり、いつの頃からか再び鷹匠町に戻った。
 鷹匠町の裏から西町を経て上金町東部にかけては紀州堀が通っていた。鷹匠町は堀を裏にして、北西より南東に道路に面して一一九間、奥行は東側で二三、四間、西側では三〇から四〇間で、寛政九年(一七九七)には、ここに二三軒の武家屋敷がかぞえられる。また、この町の南には柵があった。
 この地に住んでいた彰考館の学者であった石川久徴(桃蹊)は、天明五年(一七八五)以来自宅で私塾を開いており、文政三年(一八二〇)、江戸から戻った会沢安(やすし)(正志斎)も一時同居し、私塾を開いていたこともあった。
 明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には田見小路連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市鷹匠町となった。

明治42年の鷹匠町


 大正十五年には、この町に井戸の数が二五、昭和四年には二七あった。
 鷹匠町は、昭和四十一年四月に梅香二丁目、南町三丁目となった。
鈴坂町(すずさかちょう)
 縦に細長い鈴坂町に隣接する町は、東が大坂町、西が幸町、南が常磐町、北が鷹匠町・南町となっていた。
 この地は、かつては虚空蔵下、虚空蔵坂と呼ばれていた。それは江戸氏菩提所である藤福寺(真言宗)境内にあった虚空蔵堂によるものである。寛文八年、この寺の本堂と本尊は小田野村(美和村)へ移されたが、現在でも虚空蔵尊の遺跡がある。
 寛永四年十二月の令に、ここに「番所ヲ作リ、番ノ者置候事」とあり、武家屋敷に近かったため番所と矢来門が設けられた。
 なお元禄三年(一六九〇)の令には、井(伊)尾木六左衛門前坂をスズ(鈴)坂とするとある。
 大正十五年には、この町に井戸の数が四、昭和四年には六あった。
 明治十七年には上市連合村に入り、同二十二年には水戸市鈴坂町となった。
 鈴坂町は、昭和四十一年四月に梅香二丁目、南町三丁目となった。