泉町三丁目
鳥見町(とりみちょう)
鳥見町は、北は泉町、東は新鳥見町、南は天王町、西は裡鳥見町に隣接して東西に通ずる町であった。
この町は鷹場の巡見を仕事とする鳥見衆が居住していたところから鳥見町と呼ばれたもので、寛文年間以前から武家屋敷として開かれていた。宝永三年(一七〇六)に松下町(まつしたまち)と改めたが、後にまた鳥見町となった。
天保期の鳥見町
明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市鳥見町となった。
大正十五年にはこの町に井戸の数が三六、昭和四年には三九あった。
鳥見町は侍町であったが、明治になると店が現われはじめ、大正の頃には一四軒の芸妓置屋と八、九軒の料亭が散在するようになり、現在でも歓楽街となっている。
鳥見町は、昭和四十二年六月に泉町二丁目、泉町三丁目、天王町(住居表示による新町名)、大工町一丁目となった。
昭和30年ごろの鳥見町
信願寺町(しんがんじちょう)
信願寺町は、東は藤坂町・裡五軒町、北は撞木町・並松町、西は向井町・栄町一丁目、南は裡信願寺町・大工町に隣接していた。
この町の西側の土手際に、正保二年(一六四五)建立の信願寺があったから、この町名が付けられた。この浄土真宗の信願寺は、天和元年(一六八一)向町(後の向井町)から出火した火災で延焼し、その後河和田横町(後の寿町)に移転し跡地は武家屋敷となったが、町名はそのまま残った。
元禄三年(一六九〇)の令では真願寺町となっているが、後にまた信願寺町に戻っている。
天保期の信願寺町,裡信願寺町
明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市信願寺町となった。
大正十五年にはこの町に井戸の数が一九、昭和四年には三九あった。
明治初年の頃にはこの町に商店は一軒もなかったが、日清戦争の頃から料理店が次々と開店し、今日では、この辺一帯は歓楽街となっている。なお「上市回顧録」によると、裡信願寺町からこの町にかけての横町を俗に旦那横町(だんなよこちょう)と呼んでいたという。
信願寺町は、昭和四十二年六月に五軒町三丁目、泉町三丁目、大工町一丁目、栄町一丁目(住居表示による新町名)となった。
裡信願寺町(うらしんがんじちょう)
裡信願寺町(以前は裏信願寺町とも記した)は、信願寺町の南裏にある片側町である。この町の東は藤坂町、北と西は信願寺町、南は泉町・大工町に隣接していた。
元禄三年(一六九〇)に、荒町北裏町の片町、鵜殿藤九郎前より森与衛門前迄をうら真願寺町と称すようになり、後に今の裡信願寺町に改められたという。
明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には鷹匠町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市裡信願寺町となった。
大正十五年にはこの町に井戸の数が一六あった。
裡信願寺町は、昭和四十二年六月に泉町三丁目、大工町一丁目となり、この地は泉町・大工町通りの裏街で飲食店が多く集まり、歓楽街となっている。