備前町(住居表示による新町名)
釜神町(かまがみちょう)
釜神町は二カ所に見られ、その一カ所は、北は神崎町・備前町、東は幸町、西は青川の浸蝕谷に沿って常磐町に接し、もう一カ所は北は幸町、東は常磐町、西は備前町に接し、どちらも南は台地の崖で隔てられていた。
元禄三年(一六九〇)に、神崎への新規の道筋で六左衛門より市川与次兵衛元屋敷跡迄を釜神町と称すようになったもので、それはこの地に三宝荒神の小祠、竈(かまど)神社があったことからこの名が付けられた。
「水府地理温故録」によると、この小祠は、横田和介の屋敷内にあり、疫病退散の霊験をもち、幼児の病気をよく治すと言われて信仰されていたとある。戦前までこの小祠は、現在の備前町二番十三号寺門氏の宅地内にあった。
明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市釜神町となった。
大正十五年には、この町に井戸の数が一三、昭和四年には二五あった。
釜神町は、昭和四十二年六月に備前町(住居表示による新町名)、天王町(同)となり、千波湖を展望できるこの地には県営アパートがある。
備前町(びぜんまち)
備前町は、紀州堀の西にあって、東は幸町・釜神町、北は泉町、西は天王町・神崎町、南は釜神町・常磐町に隣接し、南北に走る町であった。
備前町の名は、この地に水戸藩附家老中山備前守の与力であった侍一七騎の屋敷があったことに因っている。元禄三年(一六九〇)には天王町と改めたが、いつのまにか備前町に戻ってしまった。
明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市備前町となった。
大正十五年にはこの町に井戸の数が四二、昭和四年には四四あった。
備前町は、昭和四十二年六月に泉町一丁目、備前町(住居表示による新町名)となり、この町の北側は商店・事務所など、南側は住宅地である。
幸町(さいわいちょう)
幸町に隣接する町は、東が鈴坂町・南町、西が備前町、南が常磐町・釜神町、北が泉町・鉄砲町となっていた。
紀州堀の西側に沿うこの町は、鷹の餌となる小鳥をとる者が住んでいたために餌指町(えさしまち)とも呼ばれていた。
寛政九年(一七九七)には、この地に七軒の武家屋敷がかぞえられる。
この町と泉町・大工町の三町のうちから名主一人が選ばれて、町政に参画していた。またこの町の北端の低地には清水があり、泉町の酒商はその湧水を汲んで酒を造り、金銘酒と名付けて販売していたという。
明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市幸町となった。
大正十五年には、この町に井戸の数が一三、昭和四年にも一三あった。
幸町は、町の東側は昭和四十一年四月に南町三丁目、梅香二丁目となり、町の西側は昭和四十二年六月に泉町一丁目、備前町(住居表示による新町名)となっている。
江戸初期のえさし屋敷(茨城県立図書館所蔵)
安政期の備前町,幸町,釜神町
明治42年の備前町,幸町,釜神町