天王町(住居表示による新町名)

121 ~ 123/ ページ

天王町(住居表示による新町名)


天王町(てんのうちょう)
 天王町は、東は備前町、北は新鳥見町・鳥見町、南は神崎町、西は常磐町・裡鳥見町に隣接していて、南西側は青川の浸蝕谷である。
 町の名は、牛頭天王(ごずてんのう)があったことにより始まる。この地の西側土手際には、武田信吉の墓所のある心光寺(浄土宗)があったが、延宝五年(一六七七)那珂郡向山村(那珂町)に移され、その跡地は武家屋敷となったが、その後、貞享四年(一六八七)にその心光寺跡に牛頭天王が木町(金町)より移された。なおこの牛頭天王は、天保十四年(一八四三)九代藩主斉昭により上河内村(市内)に移されて素鵞神社となっている。なお天王社が移っても町の名に変更はなかった。
 天王町の通りに直交して、東側の備前町より西側の鳥見町にいたる通りは天王横町と称されていた。

安政期の天王町,神崎町


 享保九年(一七二四)には、この地にあった火薬製造の竹谷彦兵衛方から火薬製造中に火を出し、犠牲者を出すなどの惨事もあった。
 明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市天王町となった。
 大正十五年にはこの町に井戸の数が四二、昭和四年には四八あった。
 天王町は、昭和四十二年六月に泉町一丁目、泉町二丁目、備前町(住居表示による新町名)、天王町(同)となった。

旧天王町(天王町)


神崎町(かみさきちょう)
 神崎町は、東は備前町、南は釜神町、北は天王町、西は外堀に利用された青川の浸蝕谷を隔てて常磐町にそれぞれ接していた。
 この一帯は、神崎寺があったことから、もとは神崎と呼ばれており、青川が水戸城の外堀とされたことにより、青川の東側は城下で神崎町と呼ばれ、西側は常葉村神崎とに二分された。明治二十二年の市制施行の時に青川の東側は水戸市神崎町、西側は同年に水戸市に編入され水戸市大字常磐字神崎となり、昭和八年に常磐町と改められた。こうして神崎の名は、寺とは直接には関係のない谷の反対側だけに残ることになった。
 明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市神崎町となった。
 大正十五年には、この町に井戸の数が一九、昭和四年には二一あった。
 神崎町は、昭和四十二年六月に天王町(住居表示による新町名)、備前町(同)となった。
裡鳥見町(うらとりみちょう)
 裡鳥見町(以前は裏鳥見町とも記された)に隣接する町は、東は鳥見町・天王町、北は大工町、西と南は青川に沿って向井町・常磐町であった。
 藩政時代から明治にかけては、鳥見町の南裏に位置していた。
 この地は、もと西光寺不断院(さいこうじふだんいん)があったことにより不断院町と称されていた。不断院は寛永元年(一六二四)藤沢小路から移されてきたが、寛文九年(一六六九)に新治郡柏崎村(出島村)に移され、その跡地は武家屋敷となった。その後鳥見町の裏にあたるので裏鳥見町に改められた。
 なお「水府地理温故録」によると、この町の土堤際に、鉄砲師桑屋富衛門の指導による関流鉄砲の稽古場があったという。
 明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市裡鳥見町となった。

明治42年の裡鳥見町


 裡鳥見町は、昭和四十二年六月に大工町一丁目、天王町(住居表示による新町名)となった。