五軒町一丁目
鉄砲町(てっぽうちょう)
鉄砲町(以前は鉄炮町と記した)は、もとは新町(あらまち)とも呼ばれていた。
この町は、上金町木戸際から肴町四ツ辻の木戸際まで一直線に通じ、二町四六間で、鉄砲細工、鍛冶の者が多く住んでいたことから、鉄砲町なる町名が出来た。その後、貞享・元禄年間に鉄砲細工、鍛冶の者を常葉村神崎(かみさき)へ移し、通路を改めて町家とした。天保年間の「水戸上下御町丁数調書」によると、紀州堀沿いの鉄砲町片町は、間数が一〇三間余で、家数は一九軒あり、幅三尺の下水道があった。また鉄砲町両側町は、間数が東側三八間、西側三六間で、家数は九軒あった。
この町と上金町のうちから町政に参画した名主一人とその外この町からは組頭一人の町役人が選ばれた。
宝暦四年(一七五四)四月には、泉町からの出火によって延焼し多大の被害を受け、それ以降鉄砲町芝付には天水桶が置かれることになった。
この町の上金町に近いところに、萬屋十三郎なる者が住んでいたが、その宅地はもと天王社跡だったところから、毎年六月の天王出社の時は、その前に神輿をとめて神酒を賜うことが行なわれたという。
また、鉄砲町では、春と秋に馬市が開かれ、多くの人々を集めた。その時には、上金町札場のところから鉄砲町にかけて、小屋掛けが立ち並び、長歌・声色・土場浄瑠璃などが催され、近郷近在の人々で賑わった。
文化五年(一八〇八)に公定された宿屋株二〇軒のうち、この鉄砲町には松屋平兵衛、小野瀬屋志三郎の二軒が見られ、多くの商人、旅人などに利用されていた。
天保期の鉄砲町
明治六年には第二大区第三小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には鷹匠町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市鉄砲町となった。
大正十五年には、この町に井戸の数が四一、昭和四年には四〇あった。
鉄砲町に隣接する町は、東が西町、西が五軒町・裡五軒町、南が泉町、北が上金町となっていた。
鉄砲町は、町の東側は昭和四十一年四月に五軒町一丁目、金町一丁目となり、町の西側は昭和四十二年六月に泉町一丁目、五軒町一丁目となっており、この地には、水戸地方気象台、文化福祉会館がある。