五軒町三丁目

129 ~ 131/ ページ

五軒町三丁目


長町(ながちょう)
 この町もはじめは武家屋敷が五軒あったために、五間(軒)町と呼ばれていた。その後、時期ははっきりしないが、長町と改められた。
 文政七年(一八二四)の「水戸御家中屋敷図」によれば、五間(軒)町(後に長町と称する町)の北で、下金町の南、松並丁(並松町の誤記)の東、藤山丁(藤坂町)の西の部分に、四つの袋町があった。元禄三年(一六九〇)に、東側から袋町、袋二丁目、袋三丁目、袋四丁目と決めたという。袋町は文字通りに袋状道路であったが、袋二丁目は下金町から八幡宮表参道のある太郎坂に通じ、袋三丁目と袋四丁目は共に下金町や並松町・与力町に直結する道路網で、別に袋状ではなかった。これら四袋町は、天保十四年(一八四三)の町区域整理によって三丁目より東側は長町に、西側は並松町にそれぞれ編入されている。

文政7年の袋町


 長町に隣接する町は、東が藤坂町、西が並松町、南が撞木町、北が下金町であった。
 明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には長町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市長町となった。
 大正十五年には、この町に井戸の数が二五、昭和四年には二六あった。
 長町は、昭和四十二年六月に五軒町三丁目、栄町一丁目(住居表示による新町名)、栄町二丁目(同)となった。

旧長町(五軒町3丁目)


撞木町(しゅもくちょう)
 元禄三年(一六九〇)から、猪飼伝衛門脇より宮本彦太郎前・戸澤左衛門前までを撞木辻と称するようになった。町の形が鐘をつく撞木のような形であったところから名付けられた町名であるという。
 撞木町は、東西一〇三間、その東側は南北三八間、西側が四五間で、寛政九年(一七九七)には、一六軒の武家屋敷がかぞえられる。
 この地には、割物奉行の渡辺五左衛門が住み枳殼(からたち)樹を植えて防垣としていた。そのため人々がタチブ町とも呼んでいた。後に枳殻樹がなくなってしまっても、しばらくはタチブ町の名前は残っていた。

天保期の長町,撞木町


 明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市撞木町となった。
 大正十五年には、この町に井戸の数が二二、昭和四年には一九あった。
 撞木町に隣接する町は、東が藤坂町、西が並松町、南が信願寺町、北が長町となっていた。
 撞木町は、昭和四十二年六月に五軒町三丁目、栄町一丁目(住居表示による新町名)となった。
藤坂町(ふじさかちょう)
 藤坂町は二カ所に見られ、その一カ所は、北は下金町、東は五軒町・裡五軒町、南は信願寺町、西は長町・撞木町に接し、もう一カ所は、北は裡五軒町、東は荒木町、南は泉町、西は裡信願寺町に接していた。
 藤坂町は、北側にある富士坂(藤山坂)に到るところからこの名が付いたもので、元禄三年(一六九〇)から、藤山坂を通り荒町(後の泉町)の木戸までを藤山町と称し、後にこれを藤坂町と改め、武家屋敷となった。富士坂の辺には富士権現の社があったが、寛文六年(一六六六)に破却となっている。寛政の頃の城下図を見ると藤坂北角に木戸と自身番があった。
 明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市藤坂町となった。
 大正十五年には、この町に井戸の数が一九、昭和四年には二二あった。
 藤坂町は、昭和四十二年六月に五軒町三丁目、泉町三丁目となり、この地には大成女子高等学校がある。