金町三丁目

137 ~ 140/ ページ

金町三丁目


下金町(しもかねまち)
 下金町に隣接する町は、東が上金町、西が馬口労町・栄町三丁目、南が藤坂町・長町・並松町、北が寺町・八幡町(やはたちょう)であった。
 佐竹氏の時代は金町という町名はなく、徳川氏になってから出来た町名で、東に面したところに木町(後の上金町)があったため、はじめは新木町と名付けられた。ところが、新木町、本木町(木町は、新木町が出来たので本木町となった)とも火災が多く、特に新木町からは元禄九年(一六九六)一月に出火し、本木町・桜町・西町・南町・藤沢小路・黒羽根町まで延焼し、大きな被害を出したこともあって、同年、防火の願いを込め本木町を上金町、新木町を下金町と改めた。
 下金町は町屋敷で、天保年間の「水戸上下御町丁数調書」では、一町目は間数が南側五八間、北側六〇間で家数は二六軒、二町目は間数が南側六二間、北側五九間で家数は二六軒、三町目は間数が南側三〇間、北側五九間余で家数は二九軒、四町目は間数が南側七七間余、北側三三間で家数は三〇軒となっている。一町目裏に畠九畝余、二町目裏に畠八畝二七歩、三町目に畠八畝九歩、四町目に畠九畝二〇歩余の年貢地があり、後に年貢御免の土地とされた。
 またこの地には、光台寺(こうだいじ)(浄土宗)、常照院(じょうしょういん)(真言宗)、安養院(あんよういん)(同)、明看寺(みょうかんじ)(浄土真宗)、了性寺(りょうしょうじ)(日蓮宗)など数多くの寺院が見られたが、それも光台寺は寛文五年(一六六五)に常葉村へ移され、常照院・明看寺など六カ寺は同六年に破却となり、了性寺は延宝二年(一六七四)に青柳村へ、安養院は貞享四年(一六八七)に天王町へ移され、この町から寺院はなくなった。この町には、名主一人と組頭四人の町役人がおり、またここには、町年寄の詰める町会所もあった。
 米などの取り引きをすることが公認された穀町は上町と下町の双方にあり、上町は泉町・上金町・下金町で三穀町と呼ばれ、下町は本六町目と本七町目であり両穀町と呼ばれた。上町では一カ月を三分して、上旬は泉町、中旬は上金町、下旬は下金町に市を立て、在郷から出る穀物を集めて売買していたという。
 下金町は商家が多かったため、商人の出入りも多く、文化五年(一八〇八)に公定された宿屋株二〇軒のうち、この町には藤屋丈右衛門、漆屋相兵衛の二軒が見られた。
 寛延のころには、下金町入口、同町升形出口に木戸と自身番があり、寛政ごろの城下図を見てもここに木戸が描かれている。
 天水桶は、下金町太郎坂、同町五間(軒)町(後の長町)入口、同町土手際などに置かれていた。
 明治六年には第二大区第四小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には長町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市下金町となった。

明治42年の下金町,寺町,風呂ノ下


 大正十五年には、この町に井戸の数が八一、昭和四年には八二もあり、これからも人口の集中の様子がうかがえる。
 下金町は、町の西側で国道一一八号の北側の部分を除き昭和四十二年六月に五軒町三丁目、金町三丁目、栄町二丁目(住居表示による新町名)となり、その北側の部分も昭和四十三年五月に栄町二丁目(同)となった。
寺町(てらまち)
 寺町は台地北端にあり、東は桜町、西と北は根本町、南は下金町に隣接していた。
 寺院が多く存在していたために付けられた町名で、佐竹氏時代に建立された長壽院(ちょうじゅいん)、龍蔵院(りゅうぞういん)が三ノ丸から、天正十八年(一五九〇)には信願寺(しんがんじ)が藤沢小路から、続いて元和二年(一六一六)には善徳寺(ぜんとくじ)もこの地に移され、その他、日蓮宗の妙雲寺(みょううんじ)、命孝寺(めいこうじ)、本学寺(ほんがくじ)など多くの寺院があった。寛文六年(一六六六)、善徳寺は大串村(常澄村)に、命孝寺・本学寺その他の寺院は他の村に移され、また破却となった寺も多く、そのため寺町にあった二一カ寺は、七カ寺しか残らなかった。その跡地は武家屋敷とされ、それまでは本寺町と呼ばれていたが、それ以後は寺町と呼ぶようになった。
 残された寺院も天保の社寺改革などで無くなり、寺町の名は残ったが、現在寺院は存在していない。
 天和元年(一六八一)一月には、向町(後の向井町)の町家から出火して延焼し、五軒町、新木町(後の下金町)、寺町、その他上町の大半を焼失したこともあった。
 元禄三年(一六九〇)には、本沢平太夫前より大森又衛門前までを元寺町(もとてらまち)、白井四兵衛前通之町を元寺町後町(もとてらまちあとまち)(後に裏寺町(うらてらまち)といった)、深沢彦内前より飯田雲八前までを向寺町(むこうてらまち)、大関太衛門前より大関族之助前までを向寺町後町(むこうてらまちあとまち)と称したが、これらの町は本寺町(寺町)の近くに存在していたことから名付けられた町名であることが推測できる。

天保期の寺町


 寛政九年(一七九七)には、一四軒の武家屋敷がかぞえられる。
 明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には長町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市寺町となった。
 大正十五年にはこの町に井戸の数は一三、昭和四年には一六あった。
 寺町は、昭和四十二年六月に金町三丁目となった。
根本町(ねもとちょう)
 根本町は、昭和八年三月十五日、常磐村が水戸市に合併された時に新設された町名で、翌九年には風呂ノ下の一部の区域を加えている。
 根本町に隣接する町は、東が霞町、西が松本町、南が桜町・寺町・八幡町(やはたちょう)であって、北は那珂川であった。
 この地は洪水により数多くの被害を受けているが、中でも昭和十六年の洪水の被害が大きかった。暴風雨は七月九日に始まり、二十三日まで続き、その間の降水量は四八〇・七ミリを示した。そのため那珂川流域や下市はほとんど浸水し、特に根本町、霞町、下市東部の被害が大きかった。この洪水による被害は、流失家屋三二軒、全潰二〇軒、半潰五七軒、床上浸水二四七八軒であったという。
 根本町は、南側の一部分が昭和四十二年六月に金町二丁目、金町三丁目、昭和四十三年五月には八幡町(はちまんちょう)となり、北側の大部分は昭和四十六年五月に根本一丁目、根本二丁目、根本三丁目、根本四丁目となった。