大工町一丁目
大工町(だいくまち)
大工町は、東は泉町、南は鳥見町・裡鳥見町、西は向井町、北は信願寺町・裡信願寺町に隣接していた。
この地は大工が多く住んでいたことからこの町名が起こった。寛永年間には大工町より光台町(後の並松町)を経て馬口労町までの外堀工事のために、土地を失った者の多くが向町(後の向井町)裏に移転して新たに町を開き、その地は新大工町と呼ばれた。そのためこの町の方は、本の字を加えて本大工町と呼ばれるようになった。
正保元年(一六四四)城下の町人で町付郷村の田畑を作る者が多かったため、その地は町奉行の支配地とされたが、そのため大工町も郡方の支配から町奉行の支配となり、郷分からようやく町分となった。
天保年間の「水戸上下御町丁数調書」によると、この町の北側は三七間、南側は四三間で、裏には三反四歩の畑があり、戸数は二六戸であった。
天保期の大工町
明治になってからも、大工町広小路のところには桝形の土堤が残っていた。また広小路から信願寺町に入る西角には水天宮があったが、現在は八幡宮(市内)境内に移されている。
大工町は、各種商店が軒を並べ賑わいをもっていたが、一方では上市の花柳界と言われた所でもあった。日清戦争の頃になると、一四軒の芸妓置屋と八、九軒の料亭があって賑わっており、この町には芸妓が約一五〇人(明治末頃)いた。大正初め頃になると料理店や芸妓置屋の組合も出来た。大工町界隈は、明治四十二年に渡里村に歩兵二連隊(現在茨城大学の場所)と常磐村に工兵十四大隊(現在茨城大学附属中学校の場所)の兵営が出来てから一層の発展を遂げている。
明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には鷹匠町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市大工町となった。
大正十五年にはこの町に井戸の数が二四、昭和四年には二五あった。
大工町は、昭和四十二年六月に大工町一丁目となり、表通りは映画館・各種専門商店・貸ビルなどが並ぶ商店街となっている。