大工町二丁目

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大工町二丁目


向井町(むかいちょう)
 向井町は、東は大工町・信願寺町・裡鳥見町、南は新大工町・寿町・木ノ折町・元山町・常磐町、西は久保町、北は栄町一丁目・北町に隣接していた。
 この町は、外堀の出来た寛永十五年(一六三八)以後に開かれ、堀を隔てて泉町・大工町の向かい側にあることから向町と名づけられた。しかし、この町から火災の発生が多く、天和元年(一六八一)にも向町の町家から出火し五間(軒)町(後の長町)、新木町(後の下金町)、寺町など上町の大半を焼くという大火があった。そのため元禄三年(一六九〇)に、防火の願いを込めて水に縁のある井の字を加えて向井町としたという。
 この町は正保元年(一六四四)には町屋となっており、延宝七年(一六七九)には町の西方に穀番所が置かれ、またこの町の木戸は城下と村村との境をなすものであった。またこの地にあった実相院(じゅっそういん)・泉蔵院(せんぞういん)は寛文六年(一六六六)に破却されている。
 天保年間の「水戸上下御町丁数調書」によれば、向井町一丁目は南側が五二間、北側が四八間で、同二丁目は南側が六二間、北側が六八間、同三丁目は南側六九間、北側が六六間あり、向井町南横町一丁目は東側が四二間、西側が五〇間、同二丁目は東側が七二間、西側が六六間、向井町片町は六九間あり、全体の戸数は一七六戸あった。

安政期の向井町,新大工町


 この向井町と久保町、新大工町、河和田横町の四町の中から名主一人が選ばれたが、その外ここには、組頭五人と配符役などの町役人がいた。
 明治五年、向井町に郵便受付所(現水戸大工町郵便局)が設けられた。
 明治六年には第二大区第二小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には天王町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市向井町となった。
 大正十五年にはこの町に井戸の数が四四、昭和四年には一〇九あった。
 昭和九年五月二十日、向井町の一部より栄町一丁目が新設されている。
 向井町は、国道五〇号の南側で、現岩間街道の東側の部分は昭和四十二年六月に大工町一丁目、大工町二丁目となり、国道五〇号の北側と現岩間街道の西側は昭和四十三年五月に大工町二丁目、大工町三丁目となっており、この地の表通りには事務所や商店などが立ち並んでいる。

旧向井町(大工町2丁目)


新大工町(しんだいくまち)
 新大工町は向井町の南にあり、河和田横町より神応寺に到るところで、寛永年間に大工町の外堀工事のため屋敷を失った者がこの地に移住させられて開かれた町で、そのため新大工町と呼ばれるようになった。
 寛文六年(一六六六)、この地にあった泉蔵院(せんぞういん)(真言宗)が破却され、その跡地には目附方の下役が移り住んでいる。
 天保年間の「水戸上下御町丁数調書」によれば、この町の南側は七〇間、北側は八二間で、戸数は二五戸であった。
 この町から向井町に出る横町は、泉蔵院があったことにより、かつて泉蔵院横町(せんぞういんよこちょう)と呼ばれ、それが「上市回顧録」によると、明治・大正時代のころには泉蔵院横町が訛って俗にセンダ横町と称されていたという。
 大正十五年にはこの町に井戸の数が二三あった。
 新大工町は、北と東は向井町、南は元山町、西は寿町に隣接しており、昭和四十二年六月に大工町二丁目、元山町一丁目となった。

旧新大工町(大工町2丁目)