常磐町一・二丁目
常磐町(ときわちょう)
常磐町は、東は神崎町・釜神町・天王町・裡鳥見町、北は向井町・元山町、西は元山町に隣接していた。
明治二十二年の市制施行のときに、常磐村のうち字神崎が水戸市に編入されて水戸市大字常磐字神崎となったのち、昭和八年に常磐町と改称された。またその後、同じく市制施行時に常磐村より編入した神崎下・妙法崎・青川・五本松下・鈴坂・梅香下の区域を常磐町に加えている。この神崎下・妙法崎・五本松下・鈴坂・梅香下の区域は台地南端の崖の下、青川は浸蝕谷の部分であって、下梅香・梅香・大坂町・鈴坂町・幸町・釜神町・備前町・天王町の南側にあたる(付録の昭和九年「水戸市平面図」を参照)。
明治42年の水戸市大字常磐字神崎(後の常磐町)
この地にある偕楽園は、九代藩主斉昭が天保四年(一八三三)に計画を立て、同十二年から造園工事を開始し翌年に完成したもので、当時の面積は約一四万七千平方メートルで、現在の常磐神社あたりまでの広さがあった。偕楽園内には、好文亭・奥御殿・表門・吐玉泉・偕楽園記の碑・水戸八景の一つである僊湖莫雪の碑などがある。
偕楽園(絵葉書より)
好文亭は二層三階の木造こけら葺きの建物で、昭和二十年の戦災で焼失したが、その後同三十二年に復元された。また表門は茅葺き切妻造りで黒塗りであったことから〝黒門〟とも呼ばれ、焼失していないので当時の姿を見ることが出来る。吐玉泉は台地崖下の所にあり、寒水石(県北真弓山から採掘された大理石)の井筒から湧き出る泉である。
藩は天保十一年(一八四〇)に常葉村神崎の地に硝子製造所を設け、板硝子・硝子鏡・硝子盃などの製造を行なった。またこの地には、同じく天保年間に藩の鉄砲製造所もつくられたが、これは安政三年(一八五六)に細谷村(市内若宮町)の神勢館内に移された。
常磐神社は、明治元年に旧士族らによって徳川光圀・斉昭二公を祀ったことに始まり、同六年の勅旨をもって常磐神社となった。昭和二十年の戦災で本社殿などが焼失したが、同三十二年鉄筋コンクリート造りで再建された。また、隣接して藤田東湖を祀る東湖神社(昭和十八年創建)があり、常磐神社境内には仰景(ぎょうけい)碑・伝万世(ばんせにつとう)の碑・浪華梅(なにわのうめ)の歌碑などの碑がある。更には義烈館(昭和三十二年創建)、回天館(昭和三十二年敦賀市より移建)などもある。
偕楽園,常磐神社(常磐公園攬勝図誌より)
城下町時代には大工町方面から神応寺・雷神前を経て神崎寺や江戸街道に到る道路は、カギノテの道を通って元山町から神崎に通じていたが、これとは別に明治十八年頃、雷神前から青川の濠に沿って、神崎寺前を通り偕楽園下に到る〝神崎新道〟が出来た。この道は千波から小吹を経て長岡(茨城町)に到る旧陸前浜街道に通じ、上市から長岡方面への通行が大変便利になった。
この街道は水戸までを第一四号国道と呼び、大正九年から国道六号となった。国道六号は、昭和になってから上市の台地と千波湖の間を通り、駅前より水府橋へ通ずるようになり、更に現在は、長岡から吉田酒門地区をバイパスが貫通している。
地図
この地にある神崎寺は、真言宗仁和寺の末寺で、笠原山東光寺と号し、朱印地五十石を有し、十一面観世音菩薩を本尊となしている。
同寺の境内の妙法崎という所に大きな松があり、貞享四年(一六八七)この松が枯れたので根本を掘りおこしたところ、銅鋳製の経筒が見つかり、これに長承二年(一一三二)と鋳付けられた三行の文字があり、これを光圀に御目にかけたところ、この寺は往古の古跡であるとの事から「神崎寺法経筒記」の一文を賜った。この銅製経筒は昭和三十七年に県指定の文化財となっている。
寛政期の神崎寺
正徳・享保の頃、神崎寺の住職と安積澹泊が相談して、境内より見える景色を中心に次のような神崎八景を撰んだという。丸山の早桜、葑田の流螢、仙波の涼月、筑波の霽雪、蓮池の板橋、妙法の瀑泉、緑岡の蒼松、笠原の紅楓、これらのうち現代ではどの程度見られるだろうか。
常磐町は、崖下の一部は昭和四十一年四月に宮町一丁目、梅香一丁目に、台地上の大部分は昭和四十二年六月に常磐町一丁目、常磐町二丁目、備前町(住居表示による新町名)、天王町(同)となり、常磐線の南側の一部は昭和五十一年二月に桜川一丁目となった。