元山町一・二丁目
元山町(もとやまちょう)
元山町は、北は新大工町・向井町、西は寿町・木ノ折町、東と南は常磐町に隣接していた。
この地は、もと常磐村に属し、昭和八年三月水戸市に合併され東原町となったが、翌九年五月二十日に、その東原町の一部から新設された町である。
藩政時代、ここに住む人々は町役を勤めることが大変なため免除を願い出た結果、慶安四年(一六五一)に郷地となり、元禄年間の頃武家屋敷や職人の町として開けはじめた。
またこの辺は、木挽きが多く住んでいたため木挽町(こびきまち)と呼ばれていたこともあった。
この地にある時宗の神応(じんのう)寺は、佐竹氏の庇護を受け、もとは藤沢小路にあったが、延宝八年(一六八〇)にこの地の経王寺跡に移され、そのためこの門前一帯は神応寺脇町と呼ばれたこともあった。本堂などは昭和二十年の戦災で焼失したが、その後再建された。神応寺の墓地には、光圀に仕えた新田宮流居合抜刀術の始祖の和田平助正勝の墓などがある。
神応寺の隣りにある別雷皇大神は、始め田見小路にあったが、その後鷹匠町に移り、延宝八年神応寺と共にこの地に移された。この別雷皇大神は、別雷命(わけいかずちのみこと)を祀り、雨乞い・雷除けの対象として広く信仰され、「雷神さん」と呼ばれて親しまれている。やはり昭和二十年の戦災で社殿などを焼失したが、昭和四十五年に復興された。
江戸初期の神応寺(茨城県立図書館所蔵)
別雷皇大神の鳥居前は、水戸城五ノ郭の堀跡で、千波湖へ流れ込む青川であったが、大正末ごろこの堀の一部は埋められ、ここから鳥見町へ出る道が出来た。なお「上市回顧録」によると、改修前のこの道を俗に大学通りと称したという。また、元山町の西の出口から偕楽園の表門を通り、吐玉泉の上に到る道路は、かつて梅の並木道であったことから、俗に梅林と呼ばれていたという。
別雷皇大神
大正十五年にはこの町に井戸の数が一一七、昭和四年には一七七あった。
元山町は、現岩間街道の東側は昭和四十二年六月に元山町一丁目、元山町二丁目、常磐町一丁目、常磐町二丁目、天王町(住居表示による新町名)、大工町一丁目となり、現岩間街道の西側は昭和四十三年五月に緑町一丁目、緑町二丁目、緑町三丁目となった。更に常磐線の南側の一部分は昭和五十年六月に見川一丁目となった。
寿町(ことぶきちょう)
寿町は、北は向井町、東は新大工町・元山町、南は元山町、西は木ノ折町・元山町に隣接していた。
藩政時代には、河和田村への通り筋のため河和田横町、または北の横町(後の北町)に対して南の横町と称され、二町二〇間三尺の長さであった。
この地は常磐村であったが、明治二十二年市制施行時に水戸市に編入され、昭和九年の町名改称で河和田横町から寿町に改められた。
昭和になるとこの町の宅地化は進み、偕楽園の入口でもあったため、公園口としての商店街も形成された。
この地にある信願寺は、浄土真宗本願寺派に属し、徳池山蓮性院と号し、幡谷城(小川町)主の幡谷次郎信勝が、親鸞に帰依して唯信房と称して開基となったといわれ、真宗二十四輩の第二十三番になる。寺の位置は水戸に来てからも、藤沢小路・寺町・信願寺町・河和田横町と転々としたという。
信願寺の本堂などは、幕末の天狗・諸生の戦いの戦火により焼失し、住職が諸生派であったこともあって廃寺とされた。明治十年ごろ再興が許され、現在にいたる。本尊は鎌倉時代の鍍金で、県指定文化財にもなっている阿弥陀如来像である。
寿町は、現岩間街道の東側は昭和四十二年六月に大工町二丁目、元山町一丁目となり、現岩間街道の西側は昭和四十三年五月に大工町三丁目、緑町一丁目となった。
明治42年の川和田横町