新荘一丁目

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新荘一丁目


北町(きたまち)
 この町は、昭和三十年十月、住民の要望により北町と町名改称したもので、それ以前は北横町(きたよこちょう)といっていた。
 北町は、北は楓小路・栄町二丁目、東は栄町一丁目、南は向井町、西は砂久保町に隣接していた。
 藩政時代の北横町は、向井町より北に走り新屋敷に通ずる町で、町の長さは一町一五間五尺であり、古くは北の横町と呼ばれ、後に北横町と呼ばれるようになった。
 昔、この地に時宗系の僧侶が多く住み、妻帯僧は日頃製造した抹香を売り、生活の糧としていた。この僧侶たちは冬になると紙衣を着て寒気を防いだところから、この地は、紙衣(かみぎぬ)町、訛ってカミギン町と異称されたという。
 水戸の町屋はほとんどが板葺き・萱葺きであったので、火が出ると大火になりやすかった。そのために、町人の義務としての火事役があり、各町内で防火体勢が取られ、この北横町にも防火体勢のための火消用水場が設置されていた。
 この町には、「散々楽(ささら)」(向井町のササラは昭和二十四年に別雷皇大神に奉納された)の笛吹きや太鼓叩きの出来る人びとが多く住んでいた。現在は後継者がなくなったため、向井町のササラは中止になっている。
 明治六年には第二大区第二小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には天王町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市北横町となった。
 大正十五年にはこの町に井戸の数が二三、昭和四年には二五あった。
 北町の町域はかなり狭いが新屋敷への入口にあたり、昭和三十年頃には雑貨店・食料品店・工具店など数多くの商店が並んでいた。そして市内バス交通の普及に伴って、早くからこの北町の通りにバスが運行された。しかし、戦災復興事業で栄町通りが直線の広い道路に改修されると、栄町通りにバスが運行されるようになり、ここを通るバス路線は廃止されてしまった。この町の道路は狭く、一方通行の道路もあって、自動車のための道路としての役割は弱くなったが、しかし裏通りとしての機能を持つようになり、商店・歓楽施設が立ち並んでいる。
 北町は、昭和四十三年五月に大工町二丁目、栄町一丁目(住居表示による新町名)、新荘一丁目となった。

旧北町(大工町2丁目,新荘1丁目)