末広町一・二・三丁目
馬口労町(ばくろうちょう)
馬口労町は、東は下金町・八幡町(やはたちょう)、南は栄町三丁目・梅小路・柳小路・桃小路・西原町、西は西原町・谷中、北は松本町に隣接していた。
藩政時代、大工町・光台町(後の並松町)を通る外堀の西側には、下金町から続く馬口労町の町屋敷があった。天保年間の「水戸上下御町丁数調書」によれば、馬口労町一丁目では南側が四八間、北側が五五間、同二丁目では南側が五四間、北側が四六間、同三丁目では南側が五七間、北側が六〇間、同四丁目では南側が六〇間、北側が三九間、同五丁目では南側が五四間、北側が五四間、同六丁目では南側が五四間、北側が五四間、馬口労町片町では一七八間で、戸数は全体で一七二戸であった。
馬口労町には馬市が立ち馬の仲買を生業とする馬喰が多く居住したので、これが町名になったと言われる。また馬口労町通りは、近在の村で出来る各種の生活用品を売買する店や問屋で非常に賑わい、これらの品物を運ぶには馬匹に依るのが唯一の運輸機関であったから、取引中に糧や水を与えて馬の疲れを労う立て場(休憩所)が多かったので、これが町名になったとも言われる。
この町は谷中・袴塚を経て茂木(栃木県茂木町)に通じる街道として早くから開けた街で、正保元年(一六四四)には商人街となっていた。そして城下の入口にあたるため、延宝七年(一六七九)には番所が置かれ、新番組の士を一人駐在させて目付方の支配としていた。
この地には寛永十三年(一六三六)建立の宝寿院(ほうじゅいん)があったが、寛文六年(一六六六)に破却となった。
商人街として栄えた馬口労町には、名主一人、組頭が五人そして配符役など町役人が置かれていた。
上町の町年寄でこの馬口労町に住んでいた呉服商大高織衛門は、米穀の需給などの経済面に活動した豪商であった。町年寄や豪商として活躍した記録は、「大高氏記録」として寛政三年(一七九一)から文久二年(一八六二)までの御用留、嘉永五年(一八五二)から明治元年(一八六八)までの日記などの原本七六冊が東京大学史料編纂所に所蔵されている。この「大高氏記録」には、当時の藩政・町政が詳細に記述されており、如何にも町人らしい鋭い感覚で、常陸はもとより、関東・東北・京大坂の物価の値段の上下限とその上昇、下落の推移や予想が、米穀・大豆・荏・塩・食用油・魚油・綿・絹・糸・紅花・などから貨幣相場などにいたるまで記されてあり、当時の水戸及び全国の経済状況を把握する事が出来る。なおこの写本は茨城大学図書館に保管されている。また大高家の菊花は有名で、毎年菊の花盛りの季節になると、多数の客の来訪で賑わった。特に天保十一年の夏菊の折には、付近の客が毎日ひっきりなしに訪れて来たという。このように明治維新前には大高家をはじめ多くの大商店がこの町に立ち並び、城下一の問屋町として栄えていた。
この町では明治五年から郵便取扱い業務が行なわれ、その後馬口労町郵便局(現水戸末広郵便局)となった。また、大高織衛門をはじめとする地元の商人たちが中心になって、明治三十三年馬口労町に常陸銀行を設立した。その場所は、大正八年の「水戸市街明細地図」によれば、祇園寺入口の東側に在った水戸米穀市場の隣りであった。その後、大正十四年に五十銀行と合併し、昭和十年に常磐銀行と合併して常陽銀行馬口労町第二支店となっている。同年、業務は常陽銀行馬口労町支店(明治四十三年水戸百四銀行馬口労町出張所で開設、現末広町支店)に継承され、営業は停止された。
明治六年には第二大区第四小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には常磐小路連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市馬口労町となった。
大正十五年にはこの町に井戸の数が一五六、昭和四年には、一八三あった。
昭和九年の町名改称により、馬口労町(片町)の一部から栄町二丁目、栄町三丁目が新設されている。
馬口労町は、昭和四十三年五月に末広町一丁目、末広町二丁目、栄町二丁目(住居表示による新町名)となった。
この町は、多くの問屋が商店街を形成し今日に至っているが、昭和二十年の戦災で焼けなかったので、ほかの商店街と比べると古い家屋が残っており、明治末頃に大高家が磯浜から勧請した神力稲荷神社がある。
明治42年の馬口労町、谷中
馬口労町二十三夜尊祭礼(絵葉書より)
谷中(やなか)
谷中は、東は馬口労町、南は西原町・上水戸町、西は袴塚町、北は愛宕町・松本町に隣接していた。
谷中のうち、桂岸寺の入口から中河内村に通ずる横町までは台谷中と称し、台谷中の西側で袴塚の境までを久保谷中と呼んでいた。久保谷中の名は、その地が窪地であったことによっている。
この地には、延宝年間の頃から人家が建てはじめられ、貞享年間の頃になると人家が一二、三戸見られるようになった。この頃にはまだ商家は見られず、人家は道路から二~三間引き込んで生垣を設けていたという。その後享保年間になると、戸数は五〇戸を越え、商家も見られるようになった。
谷中は、明治四十二年、渡里村に歩兵第二連隊(現在の茨城大学の場所)、常磐村に工兵十四大隊(現在茨城大学附属中学校の場所)の兵営舎が出来てからは、二十三夜尊の門前でもあり急速に商店街を形成していった。
大正十五年にはこの町に井戸の数が七三、昭和四年には七六あった。
昭和三年七月、それまで市内を走る水浜電車は谷中停留所(光台寺裏)が終点であったが、更に〇・五キロメートルを延長して袴塚停留所(場所は谷中)まで運転を開始し、ここが終点となった(付録の昭和九年「水戸市平面図」参照)。
一方、大正十五年十月に赤塚駅より上水戸駅を経由して石塚町(常北町)まで営業を開始した茨城鉄道は、昭和になると会社の経営は老朽化する施設の補修によって赤字が続き、その対策として水浜電車の経営陣に参加を求めた。このため昭和十九年八月一日、両社は鉄道と電車網の結合による利用者の増大と合理的経営を図って、水浜電車線路を光台寺裏から〇・三キロメートル延長して上水戸駅に結びつけた。
谷中は、旧国道一一八号東側と新国道一一八号南側で上水戸の表通りの東側は、昭和四十三年五月に末広町二丁目、末広町三丁目となり、旧国道一一八号西側と上水戸の表通りの西側は、昭和四十四年五月に末広町三丁目となった。現在は、道路拡張と共に新しい商店街に生まれ変わっている。
昭和9年の谷中