松本町(住居表示による新町名)

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松本町(住居表示による新町名)


松本町(まつもとちょう)
 松本町に隣接する町は、東は八幡町(やはたちょう)、南は馬口労町・谷中、西は愛宕町、北は根本町となっていた。
 上市台地の北西端にあるこの町は、藩政時代は常葉村松本坪で、昭和八年常磐村が水戸市へ合併した時に松本町となった。
 この地にある桂岸寺(けいがんじ)は、天和二年(一六八二)に藩家老の中山備前守信治が建てた寺で、はじめ香華(こうか)院といった。これを元禄七年(一六九四)に光圀が保和(ほわ)院と改め、その後宝永五年(一七〇八)に桂岸寺となった。境内には勢至堂があって、これを俗に〝二十三夜尊〟(谷中の三夜さん)と称し、毎月旧暦二十三日を縁日とした。かつてはその日になると、近郷近在から多くの参拝者が集まり、この付近が大混雑するほどであった。
 桂岸寺に隣接する常磐共有墓地は、二代藩主光圀が寛文六年(一六六六)酒門の共有墓地と共に家臣のために創設した墓地であり、藤田幽谷・東湖父子をはじめ、彰考館の学者達、桜田・坂下事変などの幕末の志士達の墓があり、水戸市指定文化財となっている。
 また、現在祇園寺(ぎおんじ)のある所は、以前は佐竹氏が創立した天徳寺(てんとくじ)があった。慶長七年(一六〇二)に佐竹氏国替えの時に住職は秋田に移り、弟子が残り寺務を維持したが、寛文末頃にはかなり衰退していた。これを光圀が復興し、中国よりの禅僧東皐心越(とうこうしんえつ)を住職とした。後の正徳二年(一七一二)に天徳寺は河和田村(市内)に移され、その跡は祇園寺となった。祇園寺は現在、曹洞宗寿昌派独立本山となっている。同寺の大伽藍は、安政五年(一八五八)に焼失したが、明治七年に復興した。その後昭和四十七年に鉄筋コンクリート造りとなっている。

嘉永元年の祇園寺(常葉村原分田畑反別絵図より)


 明治時代になると、この町は二十三夜尊を中心に門前町が形成され、料理店・待合・芸妓屋が軒を並べた。それも明治末頃には谷中新道を越えて発展した。現在でもこの一帯には料理店などが立ち並んでおり、その面影は残っている。
 昭和四年にはこの町に井戸の数が一二あった。
 昭和八年常磐村の水戸市合併により出来た松本町は、翌九年の町区域の変更により、一部が八幡町(やはたちょう)に編入し、袴塚町の一部が松本町に編入した。また松本町の一部と袴塚町の一部から愛宕町が新設されている。
 松本町は、旧国道一一八号東側は昭和四十三年五月に松本町(住居表示による新町名)、八幡町(はちまんちょう)、末広町二丁目、末広町三丁目となり、旧国道一一八号西側は昭和四十四年五月に愛宕町(住居表示による新町名)、末広町三丁目に、崖下の旧国道一一八号北側の一部は昭和四十六年五月にちとせ一丁目、ちとせ二丁目となった。
 この町には、祇園寺、桂岸寺、常磐共有墓地、回天神社(昭和四十四年建立)、茨城高等学校(昭和二年創設)併設茨城中学校、保和苑がある。

昭和9年の松本町