三の丸三丁目

192 ~ 195/ ページ

三の丸三丁目


柵町(さくまち)(一~六丁目)
 柵町一丁目から六丁目に隣接する町は、東が東柵町・轟町、西が銀杏町・宮下、南が銀杏町・裏柵町・柵町・水戸市(駅南)、北が北三ノ丸・南三ノ丸・大手町となっていた。
 柵町は城郭の柵木戸から町名が付いたものである。二ノ丸および三ノ丸南東部の崖下の低地が西柵町(にしさくまち)、本丸の南の崖下が東柵町(ひがしさくまち)(後の東柵町はこの町の一部分である)で、両町の境界は西柵町矢来であった。また此処が上町(うわまち)と下町(したまち)との境ともされた。
 西柵町は、堀田市左衛門脇より下河辺軍蔵前までであり、ここは、道路と堀によって挾まれた四つ区域と堀を背にした片側が屋敷に割られており、東側から七〇間と七四間、五二間と九七間、八二間と六〇間の長方形をなし、西には東照宮と常福寺(じょうふくじ)があった。堀に面した部分は、二〇間と一五間に割られ、寛文年間には松平志摩守(五千石)の屋敷のほかは千石以下の家臣の屋敷があった。
 寛文、元禄、天保の城下図を見ると、武家屋敷の軒数にはほとんど変化は見られない。寛政九年(一七九七)には、五軒の武家屋敷が数えられる。
 西柵町の中間より南に向かって西に折れて銀杏町(いちょうまち)に出るところに、柵町横町(さくまちよこちょう)があった。ここは元禄三年(一六九〇)に、城所茂衛門脇より遠山頼母脇までを改称した所である。
 東柵町は、本丸の崖下と堀の間にある武家屋敷で、崖下沿いの道路に面して、西から三九八間つづき、武家屋敷と馬屋があり、その先の空地つづきに番所があった。下ノ丸(現在の県立水戸第一高等学校の運動場)の東部は、西側が七三間、東側は一四四間、その間は道路を除いて一八八間の梯形となっていた。この地には、一千石内外或いはそれ以上の重臣を配し、寛文年間には町の西側に、伊藤玄蕃(二千石)・三木仁兵衛(一千石)・岡崎平兵衛(一千石)らの屋敷があり、その東側は御馬屋別当大久保長右衛門の屋敷となっていた。寛政九年には、ここに四軒の武家屋敷があった。
 水戸城に出入する門は数多かったが、柵町方面からは三つあった。柵町から二ノ丸に入る所にあった柵町門は、城主在城の時は開き、不在の時には閉められていて、一名不開門(あかずのもん)とも言われた。柵町門の下には柵町坂下門があり、その他、柵町から浄光寺曲輪(じょうこうじくるわ)に入る門として浄光寺門、浄光寺南門などがあった。
 二代藩主となった光圀は、寛永五年(一六二八)六月十日に、初代藩主頼房の第三子として東柵町にあった家老三木之次(ゆきつぐ)(仁兵衛)の家で生まれた。現在この屋敷のあった一角に義公生誕の碑が建てられている。その後、三木氏が北三ノ丸に移り、その跡には元禄八年(一六九五)ごろ中御殿(なかごでん)(柵町別館)が造られ、藩主の休息所、藩主の子女の居所とされた。その中御殿も、安永五年(一七七六)十二月に大町からの出火によって焼失している。
 明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には宮下連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市柵町となった。
 明治十一年十二月柵町に東茨城郡役所が開設された。しかし同十二年には元白銀町に移り、同十九年十二月の大火によって一時県庁内に移転したこともあったが、翌二十年二月東柵町に新築移転している。

安政期の柵町


 また、明治二十三年には、前年鉄砲町の上市戸長役場を仮事務所として開設された水戸市役所が柵町の旧中御殿跡に新築移転して来た。そのとき南側にあった水濠を、市役所が公有水面埋立法により、大正三年から同四年にかけ南三ノ丸から土を取り埋め立てて造成したが、その南三ノ丸の土取りした跡を造成して市役所は大正七年に移転し、二十八年間の柵町市役所時代は終った。
 明治二十二年一月には水戸・小山間に鉄道が敷かれ、この地に水戸駅(当時の名称は水戸鉄道株式会社柵町停車場)と千波湖の埋立地に機関庫などが設けられた。つづいて同二十九年十二月に水戸・上野間、同三十年二月に水戸・平間、同年十一月に水戸・上菅谷間が開通するなど鉄道網が整備されると、駅前には旅館や商店街が形成され、水戸市の玄関口となっていった。

明治23年柵町に建築された水戸市役所(市制80年写真集水戸より)



明治末ごろの水戸駅前,左奥の建物が駅舎(市内,中村宗祐氏所蔵)


 駅舎は、大正三年五月に出火で焼失し、同五年に新築された。それも昭和二十年八月の戦災によって焼失し、仮駅舎が建てられた。その後昭和三十一年七月には、民間資本を導入し建築費五千万円で二階を商店街とした民衆駅が完成し、また昭和四十九年九月には、それまでは駅出入口が北側だけであったのを駅南地区の開発を考慮して南口も開設された。
 昭和六十年三月からの国際科学技術博覧会の開催を機会に、総工事費九十四億円をかけ、市街地の南北間自由通路や橋上駅それに多数の商業機能を合体した七階建の駅ビルが完成した。また同年三月には当駅から鹿島町の鹿島神宮駅まで大洗鹿島線が開通している。
 昭和四年には、柵町に井戸の数が三〇あった。
 昭和九年五月二十日、市街地化進行で町区域の整理があり、この柵町と北三ノ丸の一部から柵町一丁目・同二丁目・同三丁目・同四丁目・同五丁目・同六丁目が新設された。
 昭和十三年六月には、那珂川と桜川の増水により、水戸駅をはじめ柵町一帯が浸水し、大きな被害を受けている。
 柵町一丁目から六丁目は、水戸駅付近が昭和四十一年四月に三の丸一丁目、三の丸二丁目、宮町一丁目、宮町二丁目に、水郡線の東側で常磐線の北側の所が昭和四十五年五月に三の丸三丁目に、常磐線の南側は昭和五十一年二月に柵町一丁目(住居表示による新町名)、柵町二丁目(同)となった。
柵町(さくまち)
 柵町に隣接する町は、東が細谷門前・渋田・三光町、西が北三ノ丸、南が三光町・北三ノ丸、北が川岸通となっていた。
 昭和九年五月二十日に柵町と北三ノ丸の一部とから、柵町一丁目より同六丁目までの六町が新設され、柵町として残った所は、あまり大きい町ではなくなった。
 柵町は、昭和四十五年五月に三の丸三丁目、城東一丁目となっており、この地には水戸赤十字病院がある。
 なお、昭和九年これ以外に柵町はもう一カ所残った所があり、それは現在の水戸駅構内南側にあたり、昭和四十五年五月に宮町一丁目となった。