城東一丁目

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城東一丁目


川岸通(かわぎしどおり)
 川岸通は二カ所ある。その一つは、東は立浪町・赤沼町・花畑・蘋町、南は川崎町・三ノ町、西は細谷門前に隣接し、北は那珂川に面する地域で、もう一カ所は、東は細谷門前、南は浮町・柵町、西は北三ノ丸に隣接し、北はやはり那珂川に面する地域であった。
 昭和九年水戸市役所所蔵版の「水戸市平面図」によれば、前者は〝河岸通〟、後者は〝川岸通〟と記されている。
 〝河岸通〟と記されている所は、新河岸または島河岸と呼ばれた所で、慶安年間に村山治郎兵衛が新たに河岸を開いたところから村山河岸とも呼ばれた。
 那珂川に面したこの地は、城下町の発展と共に各地の物産の集散地となり賑わい、特に、那珂川上流の黒羽や烏山(共に栃木県)地方から運ばれる物産を〝上川物(うわがわもの)〟と呼んだ。
 貞享年間には、赤沼町に住んでいた江幡善左衛門が、自費で馬場川・桜川を改修し、船の通路をつくった功労により、藩主光圀から河岸の使用を許されて〝善左衛門河岸〟を開き、水戸三問屋の一つになった。その他にも〝紋兵衛河岸〟〝紋左衛門河岸〟などがあり、当時下流に廻船の寄港地である那珂湊をひかえたこの下町の河岸は、城下の商人街と直結して大変繁盛した。
 元禄三年(一六九〇)に、くづれ橋より羽太半左衛門裏通りまでを新河岸と呼ぶようになった。なお、ここは那珂川と桜川に囲まれた自然堤防であったことから島河岸とも呼ばれていた。
 これらの外にも那珂川の上流に向かって、市内には数カ所の河岸があって、物資の運送を行なっていた。それらは何れも、鉄道の開通で輸送方式が変わる大正時代の初期まで続き、地元の産業に大きな役割を果たしていた。現在でもその影響を受けた各種の商工業が旧河岸跡付近に見ることができる。

天保期の河岸通


 なお、現在では想像もできないが、那珂川を白い帆を上げ東風を受けて遡航する高瀬舟や鵜飼舟などが見られ、当時の風物詩でもあった。そのような物資の交流の場であった河川の機能が失なわれてから、どのくらいたっているだろうか。
 明治九年七月には、村山河岸に下市水泳場が開設され、毎年七月より九月まで多くの人々が水府流水術の訓練を受けた。
 水府流水術は、九代藩主斉昭が天保十三年(一八四二)に上町水府流三小屋(上小屋・中小屋・下小屋)を、翌十四年には上町・下町両水府流を合併、「水府流水術」と命名したもので、元治・慶応期の混乱によって、水府流水術にも曲折があったが、その後旧藩指南であった石川竜を指南としてこの地で再開され、当時およそ八〇〇人近い生徒が那珂川の急流に挑みながら訓練を受けたという。
 一方、〝川岸通〟と記された所には、茨城県内唯一つの貨物専用駅の国鉄那珂川貨物駅があった。この駅の歴史は古く、県内最初の鉄道水戸小山間(水戸鉄道)が開通した翌年の明治二十三年十一月十六日につくられた。駅が出来た頃は、那珂川上流から下って来る杉や桧のイカダを駅近くで解いて運び出したり、日清製粉会社への麦及び製品の輸送、また日本専売公社水戸工場への各地から原料の葉たばこ及び製品のタバコの輸送の駅として賑わったが、昭和二十年の終戦を境に、日清製粉の赤塚への移転、専売公社のトラック輸送への転換等により貨物扱い量が減り、昭和五十九年二月に廃止された。
 川岸通は、〝川岸通〟と記された所は昭和四十五年五月に三の丸三丁目、城東一丁目となり、〝河岸通〟と記された所も昭和四十五年五月に城東二丁目、城東四丁目となった。

那珂川貨物駅(昭和56年)


一ノ町(いちのちょう)
 元禄三年(一六九〇)の令で一之町と改められたが、それ以前は石垣脇町(いしがきわきまち)と呼ばれていた。
 石垣脇町は、新寺町(後の川崎町)から南に走り、荒神町を貫き、トドメキ(ドドメキ)橋に到る所をいった。
 寛政年間に、下之丸の東部にあたる西側七三間、東側一四四間、その間の道路を除いた一八八間の梯形の土地を四つに割って、一之町、二之町、三之町、代官町の町が作られた。一之町は、そのうち城に近い部分に作られた屋敷町である。
 明和三年(一七六六)から天明五年(一七八五)まで、一之町の西側の北端に、藩の御買物方の役所が置かれたが、後にこの役所は城中に移された。
 寛政九年(一七九七)一之町には八軒の武家屋敷があった。
 大正三年にはこの地に水戸専売支局水戸工場が新築された。それまでの工場は、柵町その他に分散していた。その後日本専売公社水戸工場となり、昭和四十二年に新工場が完成し、煙草の生産能力は年間約一〇〇億本で専売公社の主要工場であった。昭和六十年四月には日本たばこ産業株式会社水戸工場となった。
 明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には十軒町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市一ノ町となった。
 一ノ町に隣接する町は、東は二ノ町、南は荒神町、北は川崎町・渋田、西は北三軒町・東青柳町であった。一ノ町は、常磐線の北側が昭和四十五年五月に城東一丁目となり、常磐線の南側は昭和五十一年二月に柵町三丁目(住居表示による新町名)となった。

昭和13年水害 一ノ町付近(市内,加藤重蔵氏所蔵)


浮町(うきまち)
 元禄三年(一六九〇)の令に、浮柵より東に向かい宝鏡院前に到る所で梶山弥大夫前の町を浮町と呼ぶとある。
 「吉田神社文書」のうち嘉禄三年(一二二七)、正応四年(一二九一)の記録に「宇喜郷」とあるのはこの一帯のことである。
 この町は、初代藩主頼房の時代から二代藩主光圀時代のはじめ迄は、両側共に侍屋敷であった。その後北側は諸士屋敷及び黒鍬長屋となり、南側は農地になった。寛政九年(一七九七)には、五軒の武家屋敷がかぞえられる。
 明治の中頃になって、この町には河岸で諸物産の取引きをする人が現われ、また質屋などを開業する人も出て来た。
 浮町に隣接する町は、北と西は川岸通、東と南は細谷門前であった。浮町は、昭和四十五年五月に城東一丁目となった。
宝鏡院門前(ほうきょういんもんぜん)
 宝鏡院門前は、西は細谷渋田(渋田沼を埋めたてた所)、東は島橋を以て河岸通に界し、北は細谷門前に接する町で、もと宝鏡院があった所である。
 宝鏡院は如意山大幢寺と号し、佐竹十三代当主の義人が永享八年(一四三六)または嘉吉二年(一四四二)に太田に建立した真言宗の寺院で、それ以来、天神林村(常陸太田市)にあった浄月院に代って佐竹氏代々の祈願所となり、天正十九年佐竹義宣の水戸入城の時に水戸に移った。
 宝鏡院の水戸での場所は、義宣の奉行人である大和田近江守重清の「日々記」文禄二年(一五九三)十月十七日の条に、「宝鏡御門前真豊内ヲ桃ヘ御透」とあるように、重臣の真崎豊後守秀俊や与力大名武茂氏の屋敷があった杉山である。
 慶長七年(一六〇二)佐竹氏の秋田国替えのとき、六月廿日付書状で義宣に「常陸諸寺家之儀、秋田御越之儀、堅御無用ニ而候」「其儘常陸御残最(尤)候」と命じられたが、宝鏡院の祐寂法師は本尊と共に秋田に移った。寺の格式は、水戸に残った弟子たちによって維持されたので、宝鏡院は秋田と水戸の二カ寺となった。水戸宝鏡院は、水戸徳川家も祈願所とし、常陸一国の僧録の格式も認められ、正月十一日の城中での大般若経の読経や御札献上も許された。
 ところが、寛文六年(一六六六)二代藩主光圀の城下町整備と社寺整理によって、寺域が城の鬼門にあたることを理由に青柳村(市内)に移され、跡地は武家屋敷とされた。それもほどなく解除され、再び旧寺域の東端に戻り、元に近い格式を保持したが、天保十四年(一八四三)十月九代藩主斉昭の天保の改革で処分を受け、住持は隠居となり、寺宝などは常葉村の神崎寺に移された。
 宝鏡院の寺地の東隣りの地は館山九郎に与えられ(後に山九郎河岸といわれた)、この河岸と寺地の間には舟番所が置かれていた。
 元禄三年(一六九〇)の令で、蘆沢源五衛門前から舟番所前迄を、元門前町(もともんぜんまち)と呼ぶようになったが、その後、門前と改められたという。
 寛政九年(一七九七)には、四軒の武家屋敷があった。

江戸初期の宝鏡院(茨城県立図書館所蔵)


 明治六年には第一大区第二小区、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には十軒町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市門前となった。その後昭和九年の町名改称で川岸通と渋田の一部から細谷門前が新設されたため、門前は宝鏡院門前となった。
 近代相撲の確立に努力し黄金時代を築いた常陸山谷右衛門は、明治六年にこの地で生まれた。明治三十七年横綱になり、当時の相撲界の全盛期を築き、大正三年一月場所まで君臨した。
 宝鏡院門前は、北は細谷門前、東は川岸通、南は川崎町、西は渋田に隣接していた。昭和四十五年五月に城東一丁目、城東二丁目となった。
細谷門前(ほそやもんぜん)
 この地は、もとは細谷村の地であったが、明治二十二年の市制施行のときに水戸市に編入された所である。昭和九年五月二十日の町名改称により、川岸通と渋田のそれぞれの一部から細谷門前が新設された。
 このとき細谷門前となった渋田の所は、かつては渋田沼と呼ばれていた浅い沼地で、明治十六年ごろ水戸城一帯の堀を埋め立てた際に、この沼地も埋められて開かれた所である。この沼は、宝永年間、松並勘十郎が水陸交通を便利にするため城と河岸の間をつなぎ直接那珂川へ通じるように掘った堀の跡で、松並勘十郎の宝永改革の失敗後は、浅い沼地となっていた。
 那珂川に面した地に、日清製粉株式会社の工場が建設されたのは大正六年で、耕地一万坪を買収して操業を開始した。昭和十一年には、毎日百トンの製粉を輸送するために、鉄道の引込線を杉山河岸から構内までのばした。
 日清製粉は昭和二十年に赤塚に移転し、その後桜川も埋め立てられ、更に那珂川の築堤工事が行なわれて、この辺の地形は一変した。

安政期の渋田沼付近



昭和9年の旧渋田沼付近



昭和10年の日清製粉水戸工場(毎日新聞社水戸支局所蔵)


 細谷門前は、北は那珂川で、東は川岸通、南は宝鏡院門前、西は浮町に隣接していた。
 昭和四十五年五月に城東一丁目となった。
北三軒町(きたさんげんちょう)
 水戸には、屋敷の数で町名を付けた所が幾つかあるが、北三軒町もその一つである。北三軒町は、もとは三軒屋敷とも言われ、荒神見付前の堤際より西北の間を指して、堀添いに宇木(浮)新道の通路を言った。一之町の西側に位置し、三浦氏の宅地があり、のちに藩家老山野辺氏の屋敷となった所である。山野辺氏が上町に移ってから東側は、一之町に属し、西側は諸士の屋敷地とされた。
 寛政九年(一七七九)には三人の藩士(野中三五郎、村島八左衛門、五百城近江守)の宅地となり、これより後は三軒屋敷または三軒町と呼ばれるようになった。この町の間数は四八間、軒数は一〇で、畑が七畝四分あった。
 この地の南には千波湖に続く大きな沼があり〝明星ケ池〟とか〝亀ケ池〟と呼ばれ、また野中三五郎の屋敷が近くにあったため〝野中の池〟とも呼ばれていた。藩主光圀がかつて白魚を放したとの言い伝えもある。
 後には、この一帯は町名を改めて、新川崎町と呼ばれたこともあった。
 昭和九年五月二十日に本町近くの三間町と区別するため北三軒町と改称された。
 北三軒町は、北は渋田、東は一ノ町、西と南は明星町に隣接していた。昭和四十五年五月に城東一丁目となった。
明星町(めいせいちょう)
 明星町は、昭和九年五月二十日の町名改称によって三軒町の一部と東柵町の一部から新設された町である。その大部分は〝明星ケ池〟を埋立てた所からこの名がつけられたという。〝明星ケ池〟は、周囲三〇〇メートルの広さで、深さは約二メートル、中心部は三メートル以上あり、池の中央部からは水が湧き出ていたという。
 この明星ケ池は、昭和四年に東京那須興業株式会社が払下げて埋立てを始めたが資金が続かず、その後市内の弓削徳充が引受けて埋立てを続けた。昭和七年に造成工事を完了させて宅地としたので、池の面影は全然なくなってしまった。こうして昭和九年に明星町が誕生したのである。

明治42年の明星池付近


 明星町は、北は渋田・柵町、東は北三軒町・一ノ町、南は東柵町・東青柳町、西は三光町に隣接していた。昭和四十五年五月に城東一丁目となった。
三光町(さんこうちょう)
 三光町は、昭和九年五月二十日町名改称に伴って柵町の一部から新設された町である。この町は、明治の末に明星ケ池の脇の藪地を開拓して三戸の宅地が出来たことに始まるという。
 三光町は、北は柵町・渋田、東は明星町、南は東柵町、西は北三ノ丸に隣接していた。昭和四十五年五月に城東一丁目となった。
渋田(しぶた)
 渋田は、安政年間の水戸城下図や昭和九年の水戸市役所所蔵版「水戸市平面図」によると、渋田沼の南側に開けた町である。浮新町(もと国鉄那珂川貨物駅より水戸赤十字病院へ通ずる所の町)の中央から東に通ずる所を渋田と呼んでおり、武家屋敷が四、五戸あった。渋田の東端より左右に分かれ、宝鏡院門前及び新寺町(後の川崎町)に通じる道は浮新道と呼ばれていた。
 渋田に隣接する町は、北は細谷門前、東は宝鏡院門前・川崎町、南は北三軒町・明星町、西は柵町であった。
 昭和四十五年五月に城東一丁目となった。

旧渋田(城東1丁目)