城東二丁目
二ノ町(にのちょう)
元禄三年(一六九〇)の令に、佐野八兵衛前の町を二之町と称すとあるが、それ以前はこの地は内河崎(うちかわさき)と呼ばれており、一之町の東にあって荒神町より北に向かい新寺町(後の川崎町)に入る小路を言った。小宮山楓軒の「水府志料」によると寛政九年(一七九七)には一二軒の武家屋敷があった。
大正三年には、一ノ町にまたがって水戸専売支局水戸工場が建てられ、町並みは片側だけとなってしまった。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、十五年には十軒町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市二ノ町となった。
二ノ町に隣接する町は、北は川崎町、東は三ノ町、南は荒神町、西は一ノ町であった。
二ノ町は、昭和四十五年五月に城東一丁目、城東二丁目となった。
三ノ町(さんのちょう)
元禄三年(一六九〇)の令に、小柳津番蔵前の町を三之町とするとあり、南は搦手(からめて)橋より、北はくずれ橋迄の間としており、荒神町と新寺町(後の川崎町)を貫き、一名〝外河崎(そとかわさき)〟とも〝代官町後(だいかんちょうあと)〟とも呼ばれた。
下町の町割は、桜川を導いて掘った堀を基準にして、その内郭と堀の南部及び東部と藤柄町、台町付近の四地域に分けられるが、一ノ町、二ノ町、三ノ町、代官町は堀の内側にあり、城に最も近いだけに武家屋敷のみから成り立っていた。寛政九年(一七九七)三ノ町には、二六軒の武家屋敷があった。
三ノ町は、我が国を代表する日本画壇の大家である横山大観が生まれた所でもある。
大観は、明治元年九月、水戸藩士酒井捨彦の長男として三ノ町と川崎町が交差する十字路の一角にあった屋敷で生まれた。その後父捨彦は分家であったため金禄公債にありつけず四歳の秀蔵(後の秀麿)を伴って磯浜村(大洗町)に引越し酒屋を開業した。同八年に再び水戸に戻り、上市信願寺町に住んだが、同十一年父捨彦の仕事の関係で上京、府立中学に学び、同二十一年母方の横山姓を継ぎ横山秀麿と名乗った。翌年東京美術学校に入学、校長岡倉天心の下で、橋本雅邦らに学び、同三十年より大観の号を用いた。その後、同三十九年五浦海岸(北茨城市)に移住、菱田春草、下村観山、木村武山らと画道に精進し、多くの傑作を生み、のち日本美術院を再興するなど、日本画家として不動の地位を確立した。昭和十一年にはその業績を認められて、文化勲章を受賞、同二十四年には茨城県の名誉県民になっている。同三十三年二月二十六日九十一歳の生命を終え遺骸は東京谷中の共同墓地に埋葬された。
三ノ町は、明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋(うきくさ)町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市三ノ町となった。
三ノ町に隣接する町は、東は川崎町・代官町、南は荒神町、北は川岸通、西は二ノ町であった。また、三ノ町の一部は現在の桜川の河川敷の中にも残っていた。
三ノ町は、常磐線の北側が昭和四十五年五月に城東二丁目に、常磐線の南側は昭和五十五年二月に東台一丁目、東台二丁目となり、この地には水戸城東郵便局がある。
天保期の二ノ町,三ノ町,代官町,馬場,川崎町,荒神町
昭和9年の二ノ町,三ノ町,代官町,馬場,川崎町,荒神町
荒神町(あらがみちょう)
元禄三年(一六九〇)の令に、荒神町見付より荒神橋迄を〝あらがみ町〟と唱えるとある。荒神橋のあたりの赤沼の地内に三宝荒神の祠があり、町名はこれに由来している。三宝荒神は、元禄年間に七軒町へ移され、ここに町名だけが残った。
この町の南側の西の角に、鈴木靱負の屋敷があり、芝地となっていて武者溜りといわれた。鈴木氏の屋敷から三ノ町の間までを昔は河崎(かわさき)といい、武者溜りの南には石垣橋、西は荒神見付、三軒屋敷、北は一ノ町、二ノ町、三ノ町、代官町、馬乗馬場に通じていた。
荒神町の中で、代官町の通りから南に入った所は行き止まりの町であるため南袋町と呼ばれ、武家屋敷が四戸あった。もとこの地の南隅に観音寺(かんのんじ)(天台宗)があったが、寛文六年(一六六六)破却となり、そのため観音ボックと呼ばれ武家屋敷となった所である。
明治初期には、この町に農家や商家に混じって三〇数人の士族が住んでいた。
第二次世界大戦中、町の防火のために常磐線の線路に沿う南側の家並みは、強制的に立退きを命ぜられて家屋が破壊されてしまい、一時は片側町になっていた。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市荒神町となった。
荒神町に隣接する町は、東は赤沼町、南は十軒町・三ノ町・東台・竹隈町、北は一ノ町・二ノ町・三ノ町・代官町・馬場、西は一ノ町であった。
荒神町は、常磐線の北側は昭和四十五年五月に、城東一丁目、城東二丁目に、常磐線の南側は昭和五十一年二月に柵町三丁目(住居表示による新町名)、昭和五十五年二月に東台一丁目、東台二丁目となった。
文政7年の荒神町
川崎町(かわさきちょう)
川崎町は、二カ所ある。その一つは北と東は川岸通、南は代官町・馬場、西は三ノ町で、もう一カ所は東は三ノ町、南は二ノ町・一ノ町、北は宝鏡院門前、西は渋田にそれぞれ隣接しており、三ノ町が川崎町を貫くような形になっていた。
水戸市宮内町にある吉田神社文書(原本は昭和二十年の戦災で焼失)は、常陸の中世史料を数多く伝えているが、その中の親鸞が他界した弘長二年(一二六二)の三年後にあたる文永二年の文書に、吉田社領酒戸、吉沼、河崎とあり川崎が河崎という文字で出ている。
元禄三年(一六九〇)の令では、この一帯を新寺町といった。それによると新寺町は、新寺橋より肥田十蔵前迄とある。
現在は城東小学校の運動場になっているが、新寺橋の近くに慶長二十年(一六一五)に創建され松花山蒼龍寺(そうりゅうじ)(曹洞宗)があり、天和九年(一六八一)に払沢村(市内)東漸院(とうぜんいん)へ移されたが、このことが町や橋の名となった。
新寺町は年代は不明であるが後に川崎町と改称された。
この町の中で、代官町の通りから来て越智氏の屋敷脇を北へ入る所は行き止まりの町であるため、北袋町(きたふくろまち)と呼ばれ、武家屋敷が四戸あった。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村、同二十二年には水戸市川崎町となった。
川崎町は、昭和四十五年五月に城東一丁目、城東二丁目となっており、この地には、市立城東小学校がある。
文政7年の川崎町
代官町(だいかんちょう)
元禄三年(一六九〇)の令により、加藤四郎衛門より矢野九郎右衛門迄を代官町と呼んだ。この町は、三ノ町の東にあって、荒神町から新寺町(後の川崎町)へ通ずる所であった。
この地は、寛永のころ代官衆(藩の役人で年貢の収納やその他民政を掌った)が住んでいた所であり、そのことからこの町名が付けられた。
寛政九年(一七九七)には武家屋敷が一九軒あった。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村、同二十二年には水戸市代官町となった。
代官町に隣接する町は、東は馬場、南は荒神町、北は川崎町、西は三ノ町であった。
昭和四十五年五月に城東二丁目となった。
馬場(ばば)
代官町の東にあって、東は桜川、南は荒神橋の袂から北は新寺橋を境にした小路を馬場といった。馬乗馬場とも呼ばれた所である。
初代藩主頼房の時代からこの地には馬場があり、桜川対岸の赤沼町続きの小高い一帯を〝向う馬場〟あるいは〝向う河岸〟と呼んでいた。
藩政時代には毎年正月二十一日に田見小路にあった馬場と、ここの馬場と代わる代わる〝御馬揃い〟の式があり、藩主在国の際は必ず出御する慣例があって、馬を集めてここで訓練したという。
寛政九年(一七九七)には、六軒の武家屋敷があった。
安政期の馬場
「水戸市水害誌」によると、享保八年(一七二三)、同十三年、宝暦七年(一七五七)、安永八年(一七七九)、天明三年(一七八三)、同六年、明治二十五年、同三十五年、同四十三年とこの一帯はたびたび水害に見舞われ、時に昭和十三年六月の水禍は、それまでの記録にないほど大きなものだった。また昭和二十二、二十三年にもキャサリン、アイオン両台風の襲来に遭い、大きな被害を受けている。
昭和二十三年から建設省によって那珂川の河川改修工事が行なわれ、それに伴いこの地を流れていた桜川も改修された。
以前の桜川は、屈曲が甚だしく(付録の昭和九年「水戸市平面図」参照)、その上この辺は市中で最も低い土地で、那珂川が増水するとすぐ桜川に逆流して洪水となり、那珂川そのものよりもむしろその支流である桜川の方が大きな禍根となっていた。大雨が降ると住民に警戒を呼びかけるために、太鼓をたたき半鐘を打ち鳴らすことがたびたびで、常に洪水の恐怖にさらされていた。
この改修工事で、搦手(からめて)橋より下流を国鉄常磐線の南に沿って新川を開削し、合流点を下流の上大野村細谷地内まで、延長一七五〇メートル、幅員六七メートルを新規に掘削して那珂川に流れるようにし、そのため桜川への逆流による洪水は防げるようになった。
現在、その旧桜川の跡地はもとの荒神橋より新寺橋にかけて城東児童公園となっている。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市馬場となった。
馬場に隣接する町は、東は赤沼町、南は荒神町、北は川岸通・川崎町、西は代官町であった。
馬場は、昭和四十五年五月に城東二丁目となり、新寺橋の橋際には、水戸市南消防署城東出張所がある。
現在の新寺橋(城東2丁目)