城東三丁目
赤沼町(あかぬまちょう)
元禄三年(一六九〇)の令に、通八町目木戸より鉄炮場までを赤沼町と唱えるとあり、通八町目の木戸より新河岸(後の川岸通)に通ずる町であった。
赤沼町は、古くは河崎の一部であった。天保年間の「水戸上下御町丁調書」によれば、東一三間、西三三間とあり、東側には諸士の屋敷があり、南側の曲尺手町の木戸際に至っては、僅かに町家があった。東は仲ノ町、北は蘋町・御花畠・立浪町に通じ、西の新寺橋を渡ると新寺町(後の川崎町)に到った。また新寺橋の南の方には荒神橋があり、荒神町、馬乗馬場に通じた。
寛政年間の城下図を見ると、木戸が赤沼町に描かれており、同九年(一七九七)には七軒の武家屋敷があった。
この地は、赤い色をした沼があったので赤沼と呼ばれるようになったという。赤沼とはここが低湿地であって、鉄分が浮き出て浅い沼の底一帯にアカサビが見られたからであろう。
赤沼町の西側の通りは、古くから獄舎があり、佐竹氏時代から桜町にあった牢を、ここに移したといわれ、明治二年に廃止された。この獄舎は町奉行の支配下にあり、揚りや大牢、新牢、つめ牢の四棟があって、評定所で裁判の結果、罪状が明白になると罪人はすべてこの獄舎へ送られた。天狗派の志士で久慈郡松栄(まつざか)村(金砂郷村)の学者綿引享(文山)は、慶応二年(一八六六)入牢させられた時のことを「白筆堂記」に「六坪の獄舎に二四人の罪人が雑居し、入浴や結髪、洗濯などはさせず、夜は無灯無枕、臭気がひどくて眠れなかった」と書いている。「水戸藩党争始末」に「水戸朋党の獄たる嘉永は弘化よりも苛に元治は安政よりも惨に明治は之より虐なり」と書かれてある通り、弘化、嘉永以後藩内の党争が激しくなり、水戸城下はこの派閥党争による未曽有の恐怖時代を現出した。「水戸藩死事録」によって天狗派の方だけ見ても安政から明治までの間に、この地で死罪または獄死した者はかなりの数にのぼり、また諸生派も同様にこの赤沼の獄において死罪または獄死した者が多く、藩内党争の激しかったことを物語っている。昭和十三年には獄舎跡に慰霊碑が建立された。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市赤沼町となった。
赤沼町は、東は元仲ノ町、南は八町目・鍛冶町、北は蘋町、西は馬場・荒神町に隣接していた。
赤沼町は、常磐線の北側が昭和四十五年五月に城東二丁目、城東三丁目、城東四丁目となり、常磐線の南側は昭和五十五年二月に東台二丁目となった。
天保期の赤沼獄屋
元仲ノ町(もとなかのちょう)
仲ノ町は赤沼町の東にあり、通八・九町目の間から北に向かって蘋町に通ずる所で、赤沼町と蓮池町の中間にあるところから、仲ノ町の名がついたという。
天明五年(一七八五)には、買物方役所が町の西側にあったが、その後一ノ町の役所と共に城中に移されている。
寛政九年(一七九七)には、三二軒の武家屋敷があり、赤沼町と仲ノ町の中央は、南北一〇二間、南西四五間で規則正しく割られていた。また同じ頃の城下図を見るとこの町に木戸も描かれている。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市仲ノ町となった。
その後、上市の仲町(なかまち)と混同しやすいため、昭和八月一月〝元〟の字をつけ元仲ノ町と改称された。
元仲ノ町に隣接する町は、東は蓮池町・十町目、南は九町目・八町目、北は蘋町、西は赤沼町であった。
元仲ノ町は、常磐線の北側が昭和四十五年五月に城東三丁目に、常磐線の南側は昭和五十五年二月に東台二丁目、東桜川となっており、この地には城東公民館がある。
蓮池町(はすいけちょう)
蓮池町は、仲ノ町の東にあって、新町一町目から北に向かって蘋町の界に到るところである。
「新編常陸国誌」によれば、新町に近い所は、大部分が水田であり、後に宅地となったり寺院地になった。その寺は威徳院(いとくいん)といい、寛文六年(一六六六)破却となっている。この寺地の傍の蓮池に弁財天があり、蓮池弁天と呼んでいた。
このように蓮池があったりしたことからこの町名が付いたという。
その後、寛政九年(一七九七)には二〇軒の武家屋敷があった。また同じ頃の城下図を見ると木戸がこの町に描かれている。蘋町や蓮池町の屋敷割は規則正しく、そのほとんどは一七間、奥行二七間に分割されており、その様子は現在でも見られる。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市蓮池町となった。
蓮池町に隣接する町は、東は新町、南も新町と十町目、北は蘋町、西は元仲ノ町となっていた。
蓮池町は、常磐線の北側が昭和四十五年五月に城東三丁目となり、常磐線の南側は昭和五十五年二月に東桜川となった。
天保期の中ノ町,蓮池町,新町
新町(しんまち)
新町は、別に新通町(しんとおりまち)とも呼ばれ、通十町目の界から東北に向かって、御中間町(おちゅうげんまち)(後の細谷本郷町)に到る所で、その長さは六町三四間あった。
ここに商家が出来はじめたのは寛永の末年からで、通町につづいて開かれたので下新町とか新通町と呼ばれた。その後岩城街道筋になってからは、往来もはげしく、新町三町目・同四町目には旅人めあての遊女屋なども現われたという。
天保年間の「水戸上下御町丁数調書」によれば町は六町に分かれ、下新町一町目は東六一間西五〇間で軒数一八、同二町目は東五四間西三八間で軒数一四、同三町目は東六二間西四五間で軒数一六、同四町目は東四八間西六四間で軒数二〇、同五町目は東五四間西三九間で軒数一四、同六町目は東五七間西五三間で軒数一一であった。これらはいずれも町屋であって、新町から細谷にかけては家臣の屋敷は一軒もなかった。
また町屋の裏側には畑が数畝あって細谷村に属していた。
下新町二町目の東裏には国見明神(くにみみょうじん)の社があり、寛永二十年(一六四三)その境内に観音院(かんのんいん)が建てられたが、寛文六年(一六六六)に破却され、国見神社と共に吉田神社へ移された。また四町目の東裏には円寿院(えんじゅいん)が寛永十七年開基されたが、寛文六年に破却され、一町目出口の木戸外には天性院(てんしょういん)があり、これは浜田村に属していた。この天性院は水戸七社の一つであり、その境内にあった稲荷社は、その後ここが桜川の河川敷となってしまったために、南方約五百メートルに移されて現存している。その他、蓮光院(れんこういん)が四町目の北木戸向にあり、その直立不動尊は運慶作といわれた。また五町目には福性院(ふくじょういん)があった。
明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市新町となった。
新町に隣接する町は、東は若宮町・浜田町、南も浜田町、北は細谷本郷町、西は蔵前・蓮池町・十町目であった。
新町は、常磐線の北側が昭和四十五年五月に城東三丁目、城東五丁目に、常磐線の南側は昭和五十五年二月に東桜川となった。
昭和10年の新町