城東四丁目
蘋町(うきくさちょう)
蘋町は、元禄三年(一六九〇)には、浮草町と記されていた。低湿地の植生からくる町名であろうか。向う馬場北口から東に向かい、新町に通ずる町で、児玉数衛門前より横山覚兵衛前までで間口一七間、奥行二七間あった。
彰考館の学者で「大日本史」の編さんに従事した宇佐美公美(久五郎)は、この町に住んでいたので、蘋亭と号したという。その後この屋敷跡には、「水戸文籍考」などを著わした清水正建が住んでいた。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市蘋町となった。
蘋町は、東は蔵前、南は蓮池町・元仲ノ町・赤沼町、北は蔵前・花畑・赤沼町、西は川崎町・馬場に隣接していた。昭和四十五年五月に城東四丁目となった。
安政期の蘋町,花畑,立浪町
花畑(はなばたけ)
蘋町の北にあたり、元禄三年(一六九〇)の令に遠山伊介前の町を花畠ノ辻とするとある。
この地は、水戸藩の花園があったところであり、花畑に御の字をつけて「御花畑」と呼ばれていたのはこのためである。
町の北側に悉地院(しっちいん)(真言宗)があった。この寺は、表一六間裏二〇間あり、寛永の中頃根積町よりここに移ったが、寛文六年(一六六六)には破却され、その跡地は武家屋敷となった。
寛政年間には、六軒の武家屋敷があり、幕末になってもその数には大差がなかった。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市花畑となった。
花畑は、東は蔵前、南は蘋町、北は立浪町・蔵脇、西は赤沼町に隣接していた。昭和四十五年五月に城東四丁目となった。
旧花畑(城東4丁目)
立浪町(たつなみちょう)
新河岸(後の川岸通)より東に走り、裏新町(後の蔵前)に到る所を立浪町といった。元禄三年(一六九〇)の令に、鉄炮場より加藤茂左衛門脇までを立浪町とするとある。寛政九年(一七九七)には、ここに武家屋敷が一九軒あった。
立浪町の西端から北に向かい新蔵の方へ通じる町は井関町と呼ばれていた。もとは鉄砲場脇町とも言っていたが、元禄三年(一六九〇)に小野彦市前より山田源左衛門前までを井関町と改称したもので、この町は後に立浪町に入ってしまった。
天明三年(一七八三)からの大飢饉がまだ続く同六年七月には大水害があった。この月は雨が多く十二日夜から豪雨となり、十三日も続き那珂川、千波湖は増水し立浪町一帯も床上浸水になった。立浪町に住んでいた岡本祐鄰は「天明六丙午歳覚書」で、この洪水の様子を次のように記している。
卯年の洪水(享保八年八月)は中興の大洪水でもあり、よもやそれ以上になることはあるまいと思っていたが、十六日の午前七時頃に立浪町自宅の門前まで濁流が迫り、午後四時頃から七時頃には自宅の床まで浸水するに至った。前の卯年の洪水の時は床上浸水といっても、敷居の溝を辛うじて流れる程度だったので、この時もせいぜいその程度と思い、最初は四斗樽や臼、据風呂、机等の上に戸板をのせ、その上に大切な道具類をのせたのであったが、時間がたつにつれ、減水どころか増水する一方で、梁の上に戸板をのせ、諸道具を移した。
この洪水を岡本宅で測量した所によれば、六十三年前の享保八年(一七二三)の大洪水よりも二尺(約〇・六メートル)位高かったという。
明治六年には第一大区第二小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市立浪町となった。
立浪町に隣接する町は、東と南は花畑、西は川岸通で、北は那珂川であった。昭和四十五年五月に城東四丁目となった。
明治42年の蘋町,花畑,立浪町