城東五丁目

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城東五丁目


蔵前(くらまえ)
 この地は十町目から蓮池町を経て那珂川岸まで北方に通ずる道路で細谷通町と呼ばれていたが、元禄三年(一六九〇)の令により、横山覚兵衛脇より林甚右衛門脇迄を裏新町と称した。なお、古い時代にはこの地から対岸枝川(勝田市)へ渡河したが、寛永の末に新町通が開通されると下流に舟渡が新設されて移され、そのためその地を新舟渡と呼び、この地は本舟渡と呼ばれた。
 この地にはもと円通寺(曹洞宗)があったが、延宝二年(一六七四)古宿村(市内)へ移され、そこに藩の雑穀貯蔵倉が建てられ、蔵は新蔵と呼ばれた。それにより、ここは御蔵前とも呼ばれるようになった。

江戸初期の新蔵(茨城県立図書館所蔵)


 またこの地から東の御中間町(後の細谷本郷町)へ到る道は二本あり、北の方は北之辻、南の方は南之辻と呼ばれており、どちらも元禄三年(一六九〇)にその名が付けられた。
 明治六年には第一大区第二小区に、同八年にも第一大区第二小区に、同十五年には蘋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市蔵前となった。
 蔵前は、東は細谷本郷町・新町、南も新町、北は蔵脇、西は花畑・蘋町に隣接していた。
 昭和四十五年五月に城東四丁目、城東五丁目となった。
蔵脇(くらわき)
 この地は、もと細谷村に属し、蔵前の藩の雑穀貯蔵倉の隣りにあたるので蔵脇という字名であった。明治二十二年市制施行の時に水戸市に編入され、水戸市大字細谷字蔵脇となり、その後昭和八年大字の廃止で水戸市蔵脇となった。
 蔵脇は、東は細谷町・細谷本郷町、南は蔵前・花畑・立浪町に隣接し、北から西にかけては那珂川であった。
 昭和四十五年五月に城東四丁目、城東五丁目となった。
細谷町(ほそやちょう)
 この地も、もとは細谷村に属し、字船渡・字細谷小路・字船付であった。明治二十二年市制施行の時に水戸市に編入され、水戸市大字細谷字船渡、字細谷小路、字船付となったが、昭和八年に大字が廃止され、水戸市船渡、細谷小路、船付となった。翌九年五月二十日、それらを合わせて細谷町が新設されている。
 天保年間の地図を見ると、新町からこの地にかけては耕地が多く見え、対岸の枝川(勝田市)への渡船場があった。「新編常陸国誌」によれば、御中間町(後の細谷本郷町)の北に細谷の郷地があり、寛永の末に新たにこの地を開いて渡舟場としたので、新舟渡と呼ばれた。

明治42年の新舟渡付近


 なお、その場所には大正元年になって寿(ことぶき)橋がかけられている。
 この地の東側で那珂川が大きく曲流している所(現在は若宮町)は、自然堤防のため土地が高く、たびたびの洪水でも被害は少なかった。そのため藩は、ここに穀類を貯蔵する蔵と西洋砲術の訓練場としての神勢館と射的場の五丁矢場をつくった。
 神勢館は、西洋砲術の威力を知った徳川斉昭が、嘉永五年(一八五二)六月、書を藩の執政達に下して砲場の事を諮り、同年八月自ら略図を作成して、その構造、館舎等の設計を示し、側用人遠山重寛(竜介)に命じて着工し、一日約三〇〇人の人夫を使い、一年四カ月の月日を費やして、同六年十二月に完成したものである。そして安政元年三月二十七日には同館の開業式を行ない、更に同三年十月には付近の構内に銃砲製作所も設けた。当時は、東西九八間、南北二町余の規模をもち、藩士の子弟に砲術を教授していた。
 五丁矢場は、神勢館設置と同時に出来た射的場で、長さ五町(五四五メートル)、幅三〇間(五四メートル)あり、その左右に土壁が築かれた。射梁の高さは一五間(二七メートル)、幅四〇間、厚さ三〇間(五四メートル)もあった。明治になってからもこの高台は畑の中に残っており、明治九年十二月に県より史蹟〝五丁矢場〟として指定を受け、桜や柳などが移植され休憩所なども設けられた。下市町民の憩いの場として、小学校の遠足などにも利用されてきていたが、那珂川の改修工事によって崩された。

神勢館と五丁矢場(彰考館所蔵,「旧水戸藩資料」より)


 昔から那珂川には堤防がなく、一度大雨が降ると低地である下町一帯はたちまち浸水し、その度に住民は大きな被害を受けていた。
 那珂川の河川改修工事は、昭和二十三年から建設省の手によって水郡線鉄橋から常磐線鉄橋まで、つまり北三ノ丸から上大野村大字細谷までの間の二五〇〇メートルについて、三年間に一〇七〇万円の工費で掘削、築堤工事がなされた。この工事に伴い桜川の河川改修も行なわれ、これによって下市一帯の洪水は防げるようになった(那珂川及び桜川河川改修図参照)。
 細谷町は、東は若宮町、南は細谷本郷町、西は蔵脇に隣接し、北は那珂川であった。昭和四十五年五月に城東五丁目となった。

那珂川及び桜川改修図


細谷本郷町(ほそやほんごうちょう)
 この地は、もとは細谷村に属し、新町六町目の木戸を出て北へ行き、新舟渡(後の細谷町)に到る間の所で、道の両側には中間・足軽の長屋があったため、御中間町(おちゅうげんまち)と呼ばれていた。また西にあたる裏新町(後の蔵前)へ通じる道は二本あって、北之辻・南之辻と名付けられていた。
 明治二十二年市制施行の時に水戸市に編入され、水戸市大字細谷字若宮前、字保谷前となり、昭和八年に大字の廃止で、水戸市若宮前、保谷前となった。翌九年五月二十日の町名改称で、若宮前、保谷前を合わせて細谷本郷町が新設された。
 細谷本郷町に隣接する町は、東は若宮町、南は新町、西は蔵前・蔵脇、北は細谷町であった。
 昭和四十五年五月に城東五丁目となった。

昭和10年の蔵前,蔵脇,細谷町,細谷本郷町