柳町二丁目

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柳町二丁目


水門町(みずもんちょう)
 水門町は、一町目口ともいわれ、水門見付(みつけ)より南に向かい、本一町目の北口に出る町であった。
 初代藩主頼房の時代には、城郭と城下の町々の呼び名が一定しておらず、境界も不明瞭な所が多かった。そのため二代藩主光圀が元禄三年(一六九〇)に曲輪の諸門および侍町、上町、下町の町々の名、坂や橋の名を改め、境界を明示したもので、この時に水門御門が水門ノ見付、水門御門所見付より大竹檀衛門前までが水門町と改称された。
 この水門町の武家屋敷は、外堀の南側で堀に近い所に南北一四一間、東西ほぼ六〇間に割られていた。
 下町一帯は水田や沼地を埋め立てた所のため水質が悪かったので、寛文三年(一六六三)に藩主光圀は平賀保秀(勘衛門)に命じて笠原水道を造らせた。水源地は笠原不動谷で、主水路はおよそ七キロメートル、導水管にはおもに釜神町付近から採った岩や銅や木が使用され、木や竹の樋で各戸に配水した。この水道建設には延約二万五千人の人夫と約五百五十両の費用と一年半の年月がかかった。
 笠原水道の幹線は本町通りから細谷まで通じ、その支線は紺屋町から備前堀の南側に沿い、更に七軒町から裏一町目・本一町目に通じていた。本一町目の東側からは水門町へ、本一・二町目の間からは裏二町目に、本三・四町目の間からは、裏三町目・裏四町目にそれぞれ配水されていた。更に裏四町目からは清水町へ、青物町からは本五・六・七町目を通過し、本七町目・鍛冶町・十軒町に分水され、また、通八・九町目からは、赤沼町・仲ノ町に流れていた。
 大正期、この町には水戸座があり、時々芝居などを興行していたが、後に電気館と改名して映画などの常設館となっていた。
 明治六年には第一大区第三小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には十軒町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市水門町となった。
 水門町に隣接する町は、東は横竹隈、南は本一町目・本二町目、北は轟町、西は根積町であった。
 昭和五十一年二月に柳町一丁目、柳町二丁目となった。

文政7年の水門町


横竹隈(よこたけくま)
 古くは武熊村に属していたため、もとは横武熊と記され、後に横竹隈と記されるようになった。町域は竹熊町西側中央より西に向いそれより南に折れて本二町目と本三町目の間に出る町であった。元禄三年(一六九〇)の令に、もと興津勘左衛門の前、木内弥之允の前、河方仙衛門の前を横竹熊と唱えるとある。
 古図には、この町の西より屈折して水門町に通ずる路、また北より石垣町(後の轟町)に到る通路も見えるが、いつの頃か共に塞がれてしまっている。天正の頃この町に宝乗院(ほうじょういん)があったが、後に破却となり、また阿弥堂(あみだどう)もあって、その別当を地福院(ちふくいん)といったが寛文六年(一六六六)に破却となっている。
 宝永から享和にかけてはこの横竹隈に立原万(甚五郎)が住んでいた。翠軒と号し、博学をもって後に彰考館総裁となり「大日本史」の校訂につとめた。その子の任(甚太郎)は杏所と号し、円山応挙などに学び、文人画の大家であった。
 横竹隈には、寛政のころ木戸があった。当時、武家屋敷の辻々には辻番があり、また町方では往来道路の要所要所に木戸があった。日中の往来は自由であったが、夜間は木戸を閉めた。木戸番(立番)は木戸の開閉をするのが任務で俗に〝番太郎〟と呼ばれ、木戸の内側には番小屋を置き、番小屋では駄菓子や荒物などを商なっていたという。
 明治六年には第一大区第三小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には十軒町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市横竹隈となった。
 横竹隈に隣接する町は、東は竹隈町、南は本二町目・本三町目・本四町目、北は轟町、西は水門町であった。
 昭和五十一年二月に柳町二丁目となっており、この地には竹隈公民館、水戸南社会保険事務所がある。

安政期の横竹隈,水門町



旧横竹隈(柳町2丁目)