本町二丁目

239 ~ 245/ ページ

本町二丁目


本三町目(ほんさんちょうめ)
 本三町目は、東は本四町目に、西は本二町目に連なり、長さ一町三間四尺で、南北両端六〇間、戸数二六戸であった。
 寛永の古図によると、南側に山田彦兵衛、前野善左衛門、同隼人、同兵衛門、同茂左衛門、笹島新兵衛、河井新左衛門、塙茂左衛門など、北側には佐藤新助、前野太郎衛門、笹島七兵衛、同九兵衛、市田長兵衛、川崎縫殿助、船岡久衛門などの町人が住んでいた。このうち前野兵衛門が町年寄を勤めており、また佐藤新助は寛永初年の「田町越」の時、上町の大町からこの本三町目角表口一二間の屋敷に移った町人で、同二年(一六二五)に寛永新銭鋳造を願い出て許され、浜田村銭谷などの場所で「寛永通宝」を鋳造した町人である。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市本三町目となった。
 本三町目は、東は本四町目、南は肴町・裡三町目・檜物町、北は横竹隈、西は本二町目に隣接していた。
 昭和五十一年二月に本町二丁目、柳町二丁目となった。

江戸初期の本町通り(茨城県立図書館所蔵)


裡三町目(うらさんちょうめ)
 裡(裏)三町目は、本三町目の南裏にあたり、西は檜物町に接し、東は肴町に到り、長さは一町二二間、南側五七間、北側四二間、戸数二六戸であった。
 「水府地理温故録」によると、裏三町目はもと鍋釜の類を販売する者が多く、天和・貞享以後鍋町(なべまち)とも呼ばれていた。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市裡三町目となった。
 裡三町目は、東は肴町、南は三間町、北は本三町目、西は檜物町に隣接していた。
 昭和五十一年二月に本町二丁目となった。

下町絵図(茨城大学図書館所蔵)


本四町目(ほんよんちょうめ)
 江戸街道と岩城街道の接点はこの本四町目であり、本町通りから細谷に通る鉤形の街路を中心として町屋敷があった。
 本四町目は、西は本三町目、東は青物町に到り、長さは一町四間、南側六〇間、北側六五間、戸数二〇戸で下町第一の繁華街であった。この町は城下の問屋場に定められ、下町町屋の中心であった。
 宝暦十一年(一七六一)六月、奥州筋巡見の幕府役人が、帰途に本三町目より本四町目までを記録したものの中に、問屋の笹島金衛門、井筒屋伝六(問屋加藤三郎兵衛出張)、雇問屋の岩田孫太郎などの名が見える。また、寛政頃の城下図には本四町目に木戸が描かれている。
 明治三十二年十一月五日、本四町目に水戸貯金銀行が設立された。この銀行は、大正十一年に青物町の大森市兵衛、大森卯太郎の出資が大部分であったことから二森銀行と改称し、普通銀行に改組された。昭和二年に銀行法が公布される段階までは、下市商店に大きな影響力をもっていて利用者も多く、昭和六年頃まで続いた。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市本四町目となった。
 本四町目に隣接する町は、東は青物町、南は肴町・裡四町目、北は横竹隈・青物町、西は本三町目であった。
 昭和五十一年二月に、本町二丁目、柳町二丁目となった。

下町絵図(東京都,栗橋家所蔵)


裡四町目(うらよんちょうめ)
 この町は本四町目の南裏にあって、西は肴町、東は青物町に到る長さ一町一三間一尺、北側は三四間、南側は三三間、戸数一五戸の裏町であった。
 元禄初年生れの金具師の次郎左衛門は、裏四町目に住んでいた。彼の家は本四町目の伊勢屋太郎衛門と裏合わせであった。太郎衛門と次郎左衛門との家の間は、次郎左衛門が幼少の頃は畑になっており、そこには冬になると鴈(がん)や鴨(かも)が降りたったという。このように城下中心の商店街でも、町中に耕地があるような所も多かった。また、裏四町目には毎年暮れになると正月用の塩魚・鰹節売買の市が立ち、近辺の村から人々が集まって賑わったという。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には本二町目連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市裡四町目となった。
 裡四町目は、東は青物町、南は清水町、北は本四町目、西は肴町に隣接していた。
 昭和五十一年二月に本町二丁目となった。

昭和10年の本三町目,裏三町目,本四町目,裏四町目,青物町,肴町,三間町,清水町


青物町(あおものちょう)
 青物町は、裏四町目の東にあって、北に向かって本四・五町目および裏五町目の三つの路を受けて竹隈町に到る町で、長さ三〇間五尺、東側七八間、西側五六間、戸数三一戸の町であった。
 元は紙町(かみまち)といわれ、紙類を販売していた店が多かった。その後文化元年(一八〇四)五月に八百屋の数が多かったため青物町と改めた。この地には善行院(ぜんこういん)と東覚院(とうがくいん)という寺院があり、善行院は寛永五年(一六二八)に開山された行人寺であり、東覚院(真言宗)は、寛永十二年に南町より移ったが、いずれも寛文六年(一六六六)に破却となった。
 寛永初年の「田町越」により開けた下町は、同四年吉田村の溜池から用水を取った。しかしこの利用は紙町・裏七町目など一部に限られ、また降水時は水が濁るなど、住民は苦しんでいた。それを解決するために作られたのが後の笠原水道である。
 寛政頃の城下図によると、この町にも木戸があった。
 青物町では天保年中に商業の特権をめぐって他町との紛争があった。天保五年(一八三四)六月青物町の青物問屋が「仲買商たちが青物町の問屋へ来て仕入を行なわず、藤柄町あたりに出かけて行き、農村から城下町に入って来る青物を直買している」とその規制を願い出たのである。これによって何回か禁止令は出たが、実際にはなかなか守られなかった。
 天保十四年(一八四三)正月十六日には、この青物町より出火した大火があった。風にあおられて本五町目の半分、裏五町目と本四町目の半分そして清水町橋際まで延焼した。この地区は、城下でも有名な大店があったので、大変な騒ぎになったという。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には青物町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市青物町となった。
 青物町に隣接する町は、東は白銀町・本五町目・裡五町目・銭谷前、南は清水町・浜田町、北は竹隈町、西は本四町目・裡四町目であった。
 青物町は、昭和五十一年二月に県道中石崎水戸線の西側が本町二丁目、柳町二丁目となり、昭和五十五年二月にその東側が本町三丁目となった。

明治42年の本町通り,青物町



旧青物町(本町2丁目)


肴町(さかなまち)
 肴町は、檜物町の東にあって本三町目と本四町目の境より南に向かって三軒町(後の三間町)に達する町で、長さ二八間五尺、東西両側四七間、戸数一四戸であった。
 肴町の名は、元和・寛永の頃の「定善寺過去帳」に見える。正保二年(一六四五)の記録によると、領内の各浜で捕れた魚はいったんこの肴町問屋へ出され、藩の必要とするだけ肴方へ収め、残った魚を城下町で売るなり他地域に出すなり、魚商人の自由にさせたとある。このため肴町は魚問屋の集住する町となり、領内外の魚商人が多数集まって藩内の各浜で捕れた魚の取引きがこの町の問屋で行なわれた。
 しかし、その後肴町問屋を通さず肴を売買する商人が増えたので、天保元年(一八三〇)に町の問屋たちが、六〇人におよぶそのような商人の名前を調べ上げて、規則に反するとしてその取締りを願い出ており、更に翌二年七月にも再び肴町商人が窮状を訴えている。この訴状の内容は、①寛永二年以来、肴町問屋の取引上の規則が現在ではすっかり乱れていること、②浜方で諸魚を買い入れ、直接城下各町で売買しているので、問屋が不振になったこと、③居酒屋・仕出屋も肴町仲間と同様の商売を行ない問屋の特権を侵していること、④八町目宿屋は浜方商人宿で、ここで毎朝肴取引きをしていることなど、以上のようなものであった。この肴問屋たちの訴えに対し、藩は翌三年十二月、魚の自由売買取締りの方針を再確認し、以前通り仲買人には問屋から商札を渡すことにするなど専売の特権を認めた。
 明治八年には第一大区第二小区に、同十五年には青物町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市肴町となった。
 肴町は、東は裡四町目、南は三間町、北は本三町目・本四町目、西は裡三町目に隣接していた。
 昭和五十一年二月に本町二丁目となり、この地には茨城県婦人相談所があったが昭和五十七年に梅香二丁目へ移転している。
三間町(さんげんちょう)
 三間町は、文政年間の地図には三軒町と記されており、肴町の南にある町で、備前堀に沿って清水町の西側にあり、備前堀をはさんで南側には瓦谷不動尊があり、磯浜鹿島街道が通っていた。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には青物町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市三軒町となった。
 三軒町が後に三間町と記されるようになったのはいつ頃からかは不明であるが、明治四十二年の地図では三間町となっている。城東地区にある三軒町(後の北三軒町)と区別して三間町と表記したらしい。
 三間町は東は清水町、北は裡三町目・肴町に隣接していて、南は備前堀であった。昭和五十一年二月に本町二丁目となった。
清水町(しみずちょう)
 清水町は、裏四町目の中間より東南に走り、浜田村に出る所で、町は東側七三間、西側五七間、戸数三三戸であった。この町はもと水田の間にあったので田中町の俗名がついていたが、寛政十一年(一七九九)に清水町と改称された。この地には三つの寺院があって、福寿院無量寺千手院(せんじゅいん)は寛永四年(一六二七)に、不動院(ふどういん)(真言宗)は寛永十一年に、福泉院(ふくせんいん)(真言宗)は寛永十五年に、それぞれ創建されたが、いずれも寛文六年(一六六六)に破却となっている。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には青物町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市清水町となった。
 清水町は、東は浜田町、北は青物町・裡四町目、西は三間町に隣接しており、南は備前堀であった。
 昭和五十一年二月に本町二丁目となった。
浜町(はまちょう)
 浜町は、もと浜田村字田中後の所で、明治二十二年に水戸市に編入され、水戸市大字浜田字田中後となった。田中後の小字名は田中町(後の清水町)の後に位置したためである。昭和八年大字が廃止され水戸市田中後となり、昭和九年五月二十日町名改称で浜街道の一部であったため浜町となった。昭和二十五年には一二戸の民家だけの小さな町であった。
 浜町は、東は浜田町、北も浜田町と清水町に隣接し、西から南にかけては備前堀であった。
 昭和五十一年二月に本町二丁目となった。