本町三丁目

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本町三丁目


本五町目(ほんごちょうめ)
 本五町目は、東側が本六町目、西側が青物町、北側が白銀町、南側が裡五町目に接して、長さ一町三間二尺、南北両側各六〇間、戸数二六戸であった。
 宝永二年(一七〇五)下町の宿屋はそれまで本三・四・五町目の通りに集中しており、城下に来住する者が多くなったため従来の宿屋では応じきれず、新たに本六町目にも宿屋を建てることが認められた。宿屋一覧表を見ると、この本五町目には元禄期には藤七・庄兵衛、明和・安永期には酒場屋清蔵が宿主としてでてくる。
 宝永四年(一七〇七)藩の財政改革の一つとして、従来の特定町商品専売制が廃止され、統制の方針が緩和された。この商売の自由化のことは〝乱し〟と呼ばれ、同年十二月には塩問屋を〝乱し〟にした。木綿仕入れ問屋も仕入れが自由となり、問屋は煙草(たばこ)問屋をふくめて全て〝乱し〟となった。太物市も七軒町から本五町目までに市を立てることが許され、上町の本荒町(後の泉町)、上金町、下金町の六斎市取り立て、上金町の塩問屋許可など商業活動の自由化が一時進行し、城下は繁栄したという。
 明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には青物町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市本五町目となった。
 本五町目に隣接する町は、東は本六町目、南は塩町・裡五町目・青物町、北は白銀町、西は青物町であった。
 昭和五十五年二月に本町三丁目となった。

下町絵図(茨城大学図書館所蔵)



下町絵図(茨城大学図書館所蔵)


裡五町目(うらごちょうめ)
 裏五町目は、本五町目の南裏にあって、西は青物町に連なり、東は塩町の境に到る長さ二間五尺、南側は四二間、北側は三四間、戸数一九戸の町であった。
 この裏五町目は、タバコの専売権が許されていたため、元は多葉粉(たばこ)町(または煙草町)と呼ばれていた。
 水府煙草で名高い水戸領の煙草は、慶長から寛永の頃に栽培技術が江戸や上野国から伝わり、久慈郡赤土村(金砂郷村)や那須郡大山田郷(栃木県馬頭町)から周辺地域に拡大して、元禄・宝永時代になると久慈・那珂・茨城諸郡においても栽培されるようになった。明和五年(一七六六)には江戸商人の水戸屋忠兵衛がこの地に煙草会所を建て、同八年と安永三年には会所の組織を拡充し、他町でタバコを商う場合は役銭を納入することになった。タバコの江戸出荷も盛んで、寛政二年(一七九〇)には、水戸国産物の他領出額で、煙草は一万六千六百十五両、切粉煙草四千五百四十両で、紙につぐ重要な商品であった。
 明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には青物町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市裡五町目となった。
 裡五町目は、東は塩町、南は銭谷前、北は本五町目、西は青物町に隣接していた。
 昭和五十五年二月に本町三丁目となった。
本六町目(ほんろくちょうめ)
 本六町目は、西は本五町目に接し、東は本七町目に到る長さ一町三間三尺、南北両側とも六〇間、戸数三〇戸の町であった。
 この町は穀物の売買が許されていたので、本七町目と共に両穀町(りょうごくちょう)と呼ばれた。穀物売買はこの両町で隔月行なわれ、他町での売買は禁じられていた。その代わりとして藩から一日三〇匹の伝馬の町役を課せられており、それは両町で分担していたという。穀町は、上町と下町の両方にあり、上町は泉町と上金町・下金町で、三穀町と呼ばれていた。
 穀物問屋機構が整備されていなかった頃は穀物の売買は穀町以外でも行なわれており、蔵米の払下げなども穀町以外の商人で行なわれたことがあった。檜物町、紙町(後の青物町)、田中町(後の清水町)などで穀物商人の宿を営みながら穀物売買を行なっていたらしく、そのため穀町同様に伝馬役を課せられていたが、寛文八年(一六六八)からそれらの町では穀物売買の厳禁を条件に伝馬役は廃止された。しかし問屋株を独占した両穀町にとって、この町だけに課せられていた伝馬役は、城下町の整備による輸送物資の増大により強化されたので大きな負担になった。
 下町の宿屋は、元禄期には本三・四・五町目に集中し、旅人の宿泊は問屋の指図によって宿屋が順番に泊め、直接宿屋で泊めた場合には問屋に届出ることになっていた。その後諸商人の来泊が多くなり、宝永二年(一七〇五)には従来の宿屋では応じきれず、下町ではこの本六町目に、上町では泉町に新たに宿屋を建てることが認められた。天明四年(一七八四)には素人宿が増加したため往還宿屋以外の宿を禁じている。
 寛政頃の城下図には、この町に木戸が見える。
 明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には青物町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市本六町目となった。
 本六町目に隣接する町は、東は本七町目、南は裡六町目・塩町、北は白銀町、西は本五町目であった。
 昭和五十五年二月に本町三丁目となった。

下町絵図(茨城大学図書館所蔵)


裡六町目(うらろくちょうめ)
 裏六町目は塩町の東側にあって、裏七町目に到る本六町目の南裏側の町で、南側四八間、西側一六間、戸数二八戸であった。
 この地には蓮乗院(れんじょういん)(真言宗)があったが、寛文六年(一六六六)に破却となっている。
 町内諸役のうち、町用人足は、小間口五間から七間まで一人役となっており、寛政六・七年の裏町の規定人足役数の負担量は次の通りである。紺屋町二七人、江戸町一三人、檜物町一〇人半、裏三町目一四人、肴町一三人、裏四町目一〇人、田中町(後の清水町)と三軒町(後の三間町)が二五人半、紙町(後の青物町)一八人、裏五町目一一人半、塩町六人半、裏七町目一三人半で、この裏六町目は一五人であった。
 明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には青物町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市裡六町目となった。
 裡六町目は、東は裡七町目、南は銭谷前、北は本六町目、西は塩町に隣接していた。
 昭和五十五年二月に本町三丁目となった。

昭和10年の本五町目,裏五町目,本六町目,裏六町目,本七町目,裏七町目,白銀町,塩町,材木町



下町絵図(茨城大学図書館所蔵)


本七町目(ほんななちょうめ)
 本七町目は、西側が本六町目、東側は曲尺手町で、長さ一町三間一尺、南側・北側とも六〇間、戸数三二戸であった。この町は本六町目と共に両穀町と呼ばれ、穀物の売買が許されていた。それは川村覚介が町奉行の正保・慶安期に穀市以外での穀物商売を禁止し穀市だけの取引を願い出た結果、この本七町目と本六町目に穀物専売権が認められたものである。
 下町の給水難は笠原水道の完成により解決されたが、その維持は町ごとに受持区域が定められていた。本七町目の受持区域は一六一間三尺七寸で、円通寺へ上る坂下の二個の溜桝であったという。
 安永六年(一七七七)十二月、画家林十江はこの本七町目の豪商升屋という酒造家に、高野惣兵衛之茂(俳人高野悟井としても有名)の子として生まれた。長羽あるいは長次郎といい、父之茂は御目見格であり、藩主が就藩の際は、七軒町の木戸際に並んで出迎えることが出来る家柄であった。後に伯父にあたる裏七町目の伊勢屋という醤油屋の養子になった。立原翠軒に学び、その子杏所とも交流があり、長ずるにつれて絵画の技能をのばし、天才画家として名をはせ、数多くの作品を残した。号の十江は裏七町目の南を流れる小川を十川ということから用いたと言われる。文化十年(一八一三)九月、三十七歳で没した。
 明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第五小区に、同十七年に下市連合村に、同二十二年には水戸市本七町目となった。
 明治四十五年六月には、この本七町目角に下市共同市場が設置された。それまでの問屋制に代わって米穀の取引をする市場で、昭和初年には水戸正米市場となり、昭和十年に下市米穀商業組合と組織を変え、同十三年には米穀類の統制が始まって市場は閉鎖され組織は解散している。
 本七町目に隣接する町は、東は曲尺手町・材木町、南は裡七町目、北は曲尺手町・鍛冶町・白銀町、西は本六町目であった。
 昭和五十五年二月に本町三丁目となった。
裡七町目(うらななちょうめ)
 裡七町目は、本七町目の南裏にあたり、裏六町目より材木町に到る長さ一町四間一尺、南側五八間、北側四二間、戸数二七戸の町であった。
 安政年間の水戸城下図には、本六町目と本七町目の境から裏町に出る横町に菓物(くだもの)町の名があり、明治二十年の水道取調べ図にも記されている。本町通りとその南にある裏通りとの間には、それを連絡する横町が八本あり、西から東にかけて七軒町・江戸町・檜物町・肴町・青物町・芦(よし)町・菓物町・材木町がこれである。菓物町は、「水府地理温故録」には「六町目境より南へ向かひ裏六七町目へ出る街を云。其名起る所を知らず」とある。この町は、明治二十二年には、道路の東側が本七町目、西側が本六町目、南部が裡七町目に分かれて、独立した町にはならず、現在は忘れられたものとなっている。
 明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十七年に下市連合村に、同二十二年には水戸市裡七町目となった。
 裡七町目は、東は材木町、南は銭谷前、北は本七町目、西は裡六町目に隣接していた。
 昭和五十五年二月に本町三丁目となった。

安政期のクダモノ町,ヨシ町


白銀町(しろがねちょう)
 白銀町は、東は鍛冶町、西は武熊町で、本五町目と本六町目の北裏にあたり、寛永初年の「田町越」で上町白銀町の金銀細工師が移されて出来た町である。このため細工町とも呼ばれた時期もあり、後に白銀町と呼ばれ、そのため上町の旧白銀町は元白銀町と呼ばれた。
 水戸藩初期の刀装工としては明石与太夫、軍司与五郎らが有名であるが、軍司与五郎はこの白銀町に住み、後に功阿弥といい、見事な水戸風の鐔(つば)を作った。
 その功阿弥の作風は谷田部通寿に引継がれ、同じく白銀町に住み、子持耳に竜の生透彫・片切彫など極めて技巧的な作風で、水戸彫りの中興と言われ有名であった。その門下には玉川三郎四郎美寿、玉川文平正寿、玉川多美久、玉川吉十郎、玉川治三郎、篠崎庄右衛門保平(白銀町住)、篠崎藤九郎勝国(白銀町住)らがいて、水戸彫の名を高めた。
 寛政頃の城下図を見ると、白銀町に木戸が描かれている。また、この地には東福院(とうふくいん)(天台宗)があったが、寛文六年(一六六六)に破却となっている。
 明治六年に白銀町南側が第一大区第四小区に、白銀町北側が第一大区第三小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には青物町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市白銀町となった。
 白銀町に隣接する町は、東は鍛冶町、南は本五町目・本六町目・本七町目、北は東台・竹隈町、西は青物町であった。
 昭和五十五年二月に本町三丁目となった。
塩町(しおちょう)
 塩町は、裏五町目と裏六町目の間の町で長さ五二間、東西両側各々一六間、南側二四間、戸数一三戸であった。藩政時代には御塩屋四郎左衛門、矢口吉衛門などの塩問屋があって繁盛し、そのため塩町と呼ばれた。
 下町の中央部には東西方向に走る本五町目・本六町目の本通りを中心に、北に白銀町通り、南には裡五町目・裡六町目の裏通りと、三本の基本道路がある。これを南北方向に結んだ横町的道路の中心は、本四町目と本五町目の筋違い道路の青物町通りであった。その東側には、「新編常陸国誌」によれば「白銀町ヨリ起コリ、南ニ走リテ、本町五六町ノ間ヲ貫キ、裏六町目ニ至ル所ナリ」という芦(よし)町があった。これは、安政の城下図にも見られるが、明治時代以後の地図には現れていない。かつての芦町の区域は、昭和四年の「最新水戸市街図」によれば、北部は白銀町に、中央部は本五町目と本六町目に、南部は塩町の一部となっている。
 貞享四年(一六八七)七月、藩は笠原水道を作るにあたってその普請費用を町の居住者で恩恵を受ける者のうち、侍衆からは三貫八百十五文、町方から四十八文、町酒屋から五貫四十八文を割当て徴収している。酒屋が特別扱いだったのは、酒造りに多くの水を使用することや、富裕であったことが理由であり、酒屋人数二五人に二百五十六文、八人に百文ずつ間口割と、その他の割付額があった。この町の酒屋の半兵衛なども割当ての費用を納めている。
 また完成後の水道の維持管理については町で受け持ち、その区間は七曲り坂から町ごとに区切られ、塩町の受持ち区間は一一二間一尺九寸で、円通寺下までであり、ここに湧泉を取り入れる溜め桝があった。
 明治八年には第一大区第二小区に、同十五年には青物町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市塩町となった。
 塩町は、東は裡六町目、南は銭谷前、北は本五町目・本六町目、西は裡五町目に隣接していた。
 昭和五十五年二月に本町三丁目となった。
材木町(ざいもくちょう)
 材木町は、北は曲尺手町に連なり、南は裏七町目の東端に達し、東の浜田村に出る所には木戸があった。町は東側が三七間、西側一一間、南側二七間あまりで、戸数一九戸であった。ここには谷田・渋井に通ずる道があって、下町が開ける以前は家も少なく、通称田町と呼ばれた。「田町越」で市街が開かれて街道沿いが田町と唱えられると、この地は本田町と称された。この辺は本町通りの外側にあって木材などを取り扱う商家が多く、藩では、寛文五年(一六六五)に竹木商人たちをこの町に集め、竹木・挽臼・桶類を独占的に売買すること許可し、この町の商人たちを特に保護した。そのため寛文の末年に曲尺手町の土地七五間を含めてこの町名が付けられた。
 この町には三つの寺院があった。珠堅寺(真言宗)は寛永二年(一六二五)に上町仲町より移り、同じく寛永二年に上町大町より移った真成院(真言宗)は寺内は表が一〇間、裏は一六間で、もう一つは西念寺(浄土宗)で、寛永十四年(一六三七)に小瀬村(緒川村)より移って来た。しかし、以上の寺はいずれも寛文六年(一六六六)に破却となっている。
 水戸大薩摩の座元は、代々大薩摩縫殿左衛門を名乗り、明治に至るまで一三代続き、その屋敷ははじめこの材木町にあったが、後に上町の荒(あら)町(後の泉町)に移った。延宝七年(一六七九)には、常設の芝居小屋を荒町に開き、享保の頃にはこの材木町にも薩摩小甚太の芝居小屋が開かれた。寛政の頃の城下図には上町の方は「サツマ座」、下町の方は「コナン座」(湖南座か)と記してある。
 明治八年には第一大区第二小区に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市材木町となった。
 材木町は、東は浜田町、南は銭谷前、北は曲尺手町、西は本七町目・裡七町目に隣接していた。
 昭和五十五年二月に本町三丁目となった。
銭谷前(ぜにやまえ)
 銭谷前の南側の地(浜田一丁目)には銭谷稲荷があり、この所で寛永二年(一六二五)に本三町目の町人佐藤新助が最初に寛永通宝銭を鋳造した。後には本六町目裏や上町にても鋳造したが、その最初の鋳造地なるをもって銭屋という地名になり、後に銭谷と記された。石川慎斎の「水戸紀年」には、寛永十四年(一六三七)に水戸で鋳造された銭を〝水戸銭〟といい、同十七年の鋳銭額は毎月二・三百貫にもおよんだことが記されている。
 この地は、その銭谷稲荷の前にあたる所から、浜田村の銭谷前という小字名であった。
 明治二十二年三月三十一日に水戸市に編入されて水戸市大字浜田字銭谷前となり、昭和八年一月一日に大字が廃止となり水戸市銭谷前となった。
 銭谷前に隣接する町は、北は裡五町目・塩町・裡六町目・裡七町目・材木町、西は青物町で東から南にかけては浜田町であった。
 昭和五十五年二月に本町三丁目となった。

下町絵図(茨城大学図書館所蔵)



旧銭谷前(本町3丁目)