東台一丁目

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東台一丁目


東台(ひがしだい)
 東台は、石垣橋のそばより東南に沿って白銀町に出て東西に開いて、その南側を囲った町である。もともと竹熊村に属して周囲より高い土地なので東台の名が付いた。
 江戸氏一族の竹熊氏が代々ここに住んでおり、佐竹氏の時代には支族の東中務少輔義久の居館があったが、佐竹氏遷封後は廃城となった。
 千波湖の中に上下町の通路として柳堤を築く時にこの地からも土石を取ったため平地となり、のちに武家屋敷とされた。桜川の以南では、武家屋敷は桜川に近い所にあり、その南の本町通りを中心として町屋敷が開けていた。
 石垣橋の近くには、コウゾ屋敷という所があり、コウゾは楮(こうぞ)で、元禄以前に紙を製造した所だという。その地には清水が湧いていて豊富な水があった。またこの屋敷の反対側には不動堂があり、これは御台不動または石垣不動とも呼ばれていた。
 明治六年には第一大区第三小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には十軒町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市東台となった。
 東台に隣接する町は、東は十軒町・三ノ町、南は白銀町・鍛冶町、北は荒神町・竹隈町、西も竹隈町であった。
 昭和五十五年二月に、東台一丁目、本町三丁目となった。

文政7年の東台,竹隈町


竹隈町(たけくまちょう)
 竹隈はもと武熊とも記された。貞和五年(一三四九)三月の「鷹司師平御教書」には、武熊村は吉田郡山本郷内にあり、その武熊村の一分地頭で、かつ神宮寺薬王院の別当であった山本成珎が他界し、その跡職のうち公田六反を、鷹司師平は神宮寺修理料田として薬王院に寄進したという記事が見え、それが武熊と記された最初の史料である。この武熊村の用地は応永二十五年(一四一八)九月書写の「武熊村岡田年貢日記」には一町四反とある。この一町四反のほかに薬王院の修理料田となった六反があるから、合わせて二町となる。山本郷一四町二反余から見ると、小さな村であるが、後に山本郷を離れて武熊村として独立した。
 竹隈町は、石垣町(後の轟町)より東南方向斜に走って青物町の境に到る所で、寛永初年の「田町越」のとき竹熊の名が再び出て来る。その頃は城から桜川の堀を渡った所に当たり、付近の道路は放射状をなして本町通りに通じていた。この地には持福院(じふくいん)(真言宗)と行照院(ぎょうしょういん)(真言宗)の二つの寺院があったが、いずれも寛文六年(一六六六)に破却となっている。
 昭和十三年に水戸は四回の水害にあい、そのうち特に六月は被害が大きかった。浸水状況は轟町床上で五・五尺(約一・六七メートル)、本一町目や通九町目では一・八尺(約〇・五五メートル)、この竹隈町では一・五尺(約〇・四五メートル)で、水戸駅、下市一帯もすべて浸水し、住民は大きな被害を受けている。
 明治六年には第一大区第三小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には十軒町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市竹隈町となった。
 竹隈町に隣接する町は、東は東台、南は白銀町・青物町、北は荒神町・一ノ町、西は轟町・横竹隈であった。
 竹隈町は、県道中石崎水戸線の西側が、昭和五十一年二月に本町二丁目、柳町二丁目になり、東側は昭和五十五年二月に、東台一丁目、本町三丁目となった。

旧竹隈町(東台1丁目)