東桜川
九町目(きゅうちょうめ)
通九町目は、西が通八町目に連なり、東は浜田村に境していた。その長さ四六間五尺、北側五六間、南側六〇間、戸数は二九戸であった。九町目の境には木戸があって、そこを出れば吉沼から勝倉(勝田市)に通じた。その木戸の外には、金剛院という寺があって、本山修験、細谷大乗院帳下、利生山薩埵寺と号し、浜田村に属していた。「寺社便覧」によると、この寺は弘法大師の作といわれる不動明王を安置し、堂に掛けてある利生山の額は常照寺を開山した敬峰和尚の筆跡で、天明四年(一七八四)まで四代続いていた。
昭和十三年六月の豪雨による洪水で、この九町目でも一・八尺(約〇・五五メートル)の浸水があり被害を受けている。
明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市九町目となった。
九町目は、東と南は浜田町、北は十町目・元仲ノ町、西は八町目に隣接していた。
昭和五十五年二月に、東桜川、浜田二丁目となった。
旧九町目(東桜川)
十町目(じゅっちょうめ)
通十町目は、通九町目の中間より北に折れ、新町に通ずる所で、長さ一町八間一尺五寸あって、東側が六八間、西側が六六間、北側二六間、戸数三九戸の町であった。
この地には寛永二年(一六二五)に普門山大雲寺(だいうんじ)(曹洞宗)が建てられたが、寛文六年(一六六六)に破却となっている。
この通十町目は、宿駅の業務が町政の重要な役割を占めていたため、この町には人馬の御用の有無にかかわらず毎日問屋場に詰めている常備の者と、必要に応じて継立てにかり出される臨時の者とが居たという。
明治六年には第一大区第五小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市十町目となった。
十町目は、東は新町 浜田町、南は九町目、北は蓮池町、西は元仲ノ町に隣接していた。昭和五十五年二月に東桜川となった。
江戸初期の九町目,十町目(茨城県立図書館所蔵)