その他の町名

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朝日町(あさひちょう)
 朝日町は、吉田村大字吉田の字天神下・字御手洗尻・字館下・字谷津・字瓦台の区域が、昭和二十四年十一月三日水戸市に編入された時に新設された町である。それ以前は、地区の中通りの東側に日立製作所の社宅があり、戦災で消失した後、そこに日本住宅営団により住宅が約八〇戸建設され、その後に住宅も増加して水戸市に編入された。町名については、住民投票で吉田神社の山の名、朝日山をとって、朝日町と命名されたという。現在、市立第三中学校のある所には、昭和七年七月二十一日に水戸市立高等女学校(県立水戸第三高等学校の前身)が移転して来たが、昭和二十年八月の戦災で焼失し、同二十三年、六・三・三制の実施で県に移管され、同二十四年六月現在の三の丸二丁目に移転した。
 この水戸市立高等女学校の西側には、水戸電気鉄道の下水戸駅と車庫があった。水戸電気鉄道は、昭和二年三月十三日に水戸石岡電気鉄道として始まり、水戸と石岡を結ぶ計画であった。昭和二年八月一日には社名を水戸電気鉄道と変更し、柵町に本社を置き、昭和四年十一月二十二日に柵町と常陸長岡(茨城町)間七・六キロを開業した。所用時間は二十分で運賃は十八銭であった。起点は柵町駅で、以前の国鉄柵町踏切近くにあり、そこから紺屋町駅、下水戸駅、更に蓮乗寺下、古宿、一里塚、吉沢と通過して行った。運行回数は初めは午前に三本、午後三本の一日六本であったが、後には午前中七本、午後にも七本位となり早朝より深夜まで運転されていたという。車両は二両のガソリン動車が使用されていた。その後昭和八年十二月三十日には常陸長岡より小鶴まで、昭和九年十一月一日には小鶴から奥ノ谷まで延長された。この鉄道は最初は旅客のみで、昭和五年より貨物も取扱ったが、経営上問題があり、昭和十三年十一月十九日に廃止された。

昭和9年の水戸電気鉄道下水戸駅



水戸電気鉄道下水戸駅(茨城県立図書館所蔵)



下水戸駅構内の客車(茨城県立図書館所蔵)


宮内町(みやうちちょう)
 宮内と言うのは女坂より上がり、左右おり曲り、くい違い木戸までの名称で、吉田神社の大宮司支配の土地であった。
 吉田神社は、日本武尊を祭神としており、日本武尊が東征に際し、後に社域になった朝日山に布陣したことを記念して神社が建てられたという。創建は顕宗天皇の代であると伝えられ、「三代実録」では「貞観五年(八六三)八月辛酉朔壬戍授常陸国従四位下勲八等吉田神社四位上」とある。貞観一四年(八七二)には新羅入冦のお祈りをもって、吉田神社に祭料が寄付されている。延喜の制では名神大社に列し、後に常陸第三の宮とされた。文永二年(一二六五)十二月には大舎人忠恒が吉田神社の所領の管理をする田所職とされた。このように歴史ある神社であったことから、慶安元年(一六四八)十月二日、将軍徳川家光が御朱印状を下し、この神の東国鎮定の功績を称えている。初代藩主頼房や二代藩主光圀も崇敬し、本殿・拝殿・玉垣・神楽・鳥居・石段を寄進し、日月の鉾四神旗および吉田神社の社印を鋳造して納めた。明治六年に県社となり、広く信仰されたが、残念ながら第二次世界大戦で神殿や古文書類が戦火にあい、かつての面影は失なわれてしまった。
 江戸時代、このあたりから台町一町目・二町目にかけては、瓦・焙烙(ほうろく)・五徳火鉢等ねん土製品を作っているところが多かった。
 明治二十二年に水戸市に編入された吉田村の区域は、昭和八年に水戸市吉田となり、昭和二十三年にその水戸市吉田の一部よりこの宮内町が新設された。

吉田神社


元台町(もとだいまち)
 元台町には、吉田大工町と台町があった。吉田大工町は台町と吉田村同心町(どうしんまち)との間にあり、台町四町目の境より南に向かって吉田村の横宿に通ずる所であった。もとは吉田村に属していたが、寛永以後になって開発されて町家となったもので、大工職たちが多く住んでいたため吉田大工町と呼ばれていた。
 台町によった方を吉田大工町一町目といい、西側四三間、東側六〇間、戸数一三戸であった。横宿に出る所を同じく二町目といい、西側六〇間東側五八間あまり、戸数二八戸であった。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区になっている。
 台町は藤柄町より新坂や女坂を上り、くい違い木戸を通って吉田大工町に到るまでの町で、もとは吉田村に属していたが、寛永二年(一六二五)に開かれて町家となった。町は五町からなり、一町目は西側四〇間東側は二六間、戸数九戸、二町目は西側五五間、東側六〇間、戸数二一戸、三町目は西側四五間、東側三一間、戸数一九戸、四町目は西側五四間、東側六一間、戸数二二戸であった。
 以前の江戸街道は長岡(茨城町)から小吹(市内)を経由しており、長岡から吉田経由になったのは「田町越」で下町が開かれた後の慶安元年(一六四八)で、この道が開発されてからこの地も発展し、万治二年(一六五九)三月の間口帳に始めて吉田台町の名が出て来る。
 この地には、一乗院・福性院・養徳院・清宝院などの寺があった。一乗院(真言宗)は天正十九年(一五九一)太田村(常陸太田市)より吉田山に移ったが慶安九年に新町に移り、福性院(真言宗)は寛永二年(一六二五)吉田神社の社域のなかに建てられたが寛文四年(一六六四)破却となった。養徳院(真言宗)は、寛文六年(一六六六)に破却となり、清宝院は寛永十一年(一六三四)に一乗院境内に建てられたが後に破却となった。
 明治六年には第一大区第四小区に、同八年には第一大区第二小区に、同十五年には紺屋町連合村に、同十七年には下市連合村に、同二十二年には水戸市台町となった。その後、上市の大町と混同しやすいために、昭和八年で〝元〟の字をつけ元台町と改称した。
 現在、この地は水戸市でも人口増加地域である。

明治42年の台町



昭和10年の台町


元吉田町(もとよしだちょう)
 元吉田町は、昭和三十年四月一日に吉田村大字吉田の区域が水戸市に合併して出来た町で、明治二十二年さきに水戸市に編入されたもとの吉田村の一部区域が水戸市吉田となっていたため、〝元〟の字をつけて区別した。横宿の中間より南に向かって一里塚の境に到る所を同心町(どうしんまち)といった。すなわち吉田大工町の木戸外通り筋の宿並みを称したもので、明和年間に上宿・下宿と呼ぶようになった。木戸を出て左は大鋸町(おがまち)といって、吉田大工町の東裏にあたり、この地区には木挽きたちが多く住んでいたのでこの町名になったという。
 この地には、現在でも清厳寺・薬王院・安楽寺・常照寺・蓮乗寺など多くの寺院がある。
 清厳寺は、浄土宗で西月山東照院と号した。「寺社便覧」には大永元年(一五二一)に常福寺八世空誉上人が新宿村古館(常陸太田市)の土地で開基したが、のち火災にあい文禄三年(一五九四)にこの地に移ったとあり、境内には観音堂がある。
 薬王院は天台宗の寺で平安初期に建立されたと伝えられ、この地方の天台宗の中心として栄え、大掾(だいじょう)氏の帰依と保護を受けて来た。大永七年(一五二七)に本堂伽藍などが焼失したが、江戸氏の庇護で再興した。天正十九年(一五九一)佐竹義宣が水戸に入ると、真言宗一乗院となったが、慶長七年(一六〇二)佐竹氏が秋田に移ると共に天台宗に復した。江戸時代には朱印地五十石を領し、元禄十年(一六九七)には檀林が設立された。現在、本堂が国指定重要文化財、仁王門、本尊薬師如来坐像、十二神将像が県指定文化財になっている。
瓦谷(かわらや)
 瓦谷は備前堀の三俣(又)橋と金剛橋の間の南側の町で、その南側はかつて浜田村の水田であった。町には金上村(勝田市)の善海が明治四十年頃建立した瓦谷不動尊がある。大正から昭和のはじめ頃までは、市内をはじめ各村に多数の信徒があって日々参詣する者が多く、下市の繁栄に寄与した。善海師没後はあまり振わなくなった。縁日は毎月二十八日である。
 この町の西より檜物町に通じる所にある三俣(又)橋は、橋の下に水門があって分水し、一方は大野村の用水として、一方は浜田村・渋井村などの用水として東の方向へ流れた。このように上流と下流を加え三筋になるところからこの橋の名が出来たという。
 この地は明治二十二年に浜田村より水戸市に編入され、水戸市大字浜田字瓦谷となり、昭和八年に大字が廃止され、水戸市瓦谷となった。
 昭和の初めまでこの辺は大きな屋敷地であったが、そこには現在アパートなどが多く建てられ、人口も増加している。