「水戸」という地名は、地形上の特徴に由来している。「水戸」とは、水門(みなと)・江戸などとともに、もともと海水や湖水の出入口につけられた名称であって、水戸台地の先端(現在の県立水戸第一高等学校のところ)が那珂川と千波湖に挟まれていたところから、いつしかそのように呼ばれるようになったものである。
千波湖は、江戸時代初期の寛永二年(一六二五)に、城下下町(したまち)開発のため東南部一帯が埋め立てられたので、それ以前の千波湖は、浜田あたりまでひろがる広大な湖であり、現在の水戸第一高等学校の校庭は、那珂川と千波湖を見おろす台地の先端であったわけで、文字通り「水戸」の名にふさわしい景観を呈していたのである。
この台地の先端に鎮座していた神は、古くから水戸明神と呼ばれ、桜川対岸の吉田神社(現・宮内町)の末社といい伝えられてきたが、それが文献上に現れるのは鎌倉時代の吉田神社文書の中においてである。のち水戸明神は、吉田神社境内に、さらに明治二年(一八六九)からは笠原不動院(現・笠原町)に移された。
しかし、「水戸」が地名として用いられるようになったのは、十五世紀の中ごろ以降、江戸氏がこの地方を支配していた時代と考えられる。ただ江戸氏の時代には、地形上の特徴から、水戸を「江戸」と称した例もあり、またこの周辺が旧来の吉田郷に属していたところから、「吉田」と称することもあったので、水戸・江戸・吉田が併用されていたようである。
十六世紀に江戸氏を破って水戸に進出した佐竹氏の時代には、「水戸」あるいは「三戸」と書いた。佐竹氏の家臣大和田重清の日記には、「三戸」とあり、慶長20年(一六一五)の徳川家康の出した芦沢信重宛年貢皆済状にも「三戸」と記されている。
したがって、城府の名として「水戸」が確定するのは、徳川氏の覇権が実現し、江戸幕府が開かれてからである。