古代・中世の水戸地方

 ところで、私たちの祖先が、この地に住みつくようになったのは、今からおよそ一万数千年前の先土器時代からと考えられ、その時代の遺跡として、赤塚西団地遺跡(河和田三丁目)、成沢遺跡(成沢町)などがある。
 つづく縄文時代前期では馬場尻遺跡(飯富町)、谷田貝塚(谷田町)、柳崎貝塚(千波町)、中期では吉田貝塚(元吉田町)、後・晩期では谷田遺跡(谷田町)、全隈集石跡(全隈町)、渡里アラヤ遺跡(渡里町)などがある。弥生時代になると、水戸地方にも水稲耕作が行われ、大塚新地(あらじ)などから集落跡も発見されている。
 四世紀後半ころからは大和朝廷の勢力がこの地方にも波及し、古墳の築造が始まった。なかでも県内第三位の規模をもつ愛宕山古墳(愛宕町、国指定史跡)は、仲国造(なかのくにのみやつこ)の墓と伝えられる。
 大化改新(六四五年)によって国・郡の編制が行われ、国府が府中(現・石岡市)に置かれると、水戸地方は常陸国那珂郡に属した。
 なお、那珂の国衙(こくが)(郡役所)の位置はわからないが、現在の渡里町長者山付近と推測する学説が有力である。
 しかし、九世紀になると、水戸地方の中心地は渡里町付近から吉田神社や薬王院のある吉田台地へと移っていく。
 十二世紀の末、平氏一門の馬場資幹(すけもと)は、水戸台地の先端に居館を建て、資幹の子息たちは、青柳、袴塚、箕(見)川、枝川、吉沼、川(河)和田などに住んで、それぞれの地名を名字としたので、資幹の勢力は現在の水戸市域にほぼ相当するものとみられる。
 資幹が、源頼朝の信任を受け、常陸大掾(だいじょう)の職を与えられると府中に移ったので(馬場氏は以後、大掾職を世襲し、大掾氏を称するに至る)、水戸は事実上その支城となった。したがって、水戸の台地上に集落ができたとしても小規模であり、鎌倉時代を通じて吉田台地のほうが依然中心であったと考えられる。