十五世紀に入り、大掾氏の勢力が弱まると、太田地方(現・常陸太田市)に本拠をもつ佐竹氏の配下であった土豪江戸氏が、水戸城を奪取した。江戸氏の時代には、台地の東端に内城を置き、その外側の宿城には武士や商人が住んだが、有力な家臣のうち、春秋氏は河和田に、加倉井氏は加倉井に、外岡氏は大足(現・内原町)にそれぞれ土着していた。
豊臣秀吉のもとで勢力を伸ばした佐竹義重・義宣父子が、天正十八年(一五九〇)、江戸氏を攻めて水戸城を奪い、さらに南下して府中城の大掾氏を滅ぼすと、佐竹氏は北関東随一の大名となった。
佐竹氏は、領内の経営と城下町の拡大につとめて、従来の内城を本丸、宿城を二の丸とし、その西に三の丸を築いて重臣を配し、また城郭の普請、堀と土塁(本丸・二の丸の間と二の丸・三の丸の間)の修築を行い、武家屋敷の外側には町人町を造成した。このため、城郭と城下町は前代にくらべ格段に整備されることとなった。また一方、木葉下金山をはじめ、領内に鉱山を開発して富をたくわえた。なお、秀吉の太閤検地によって、佐竹氏は五十四万五千石余の大名となった。
しかし、この佐竹氏も関が原の戦いに際しての態度をとがめられ、徳川家康の命で慶長七年(一六〇二)、秋田へ国替えとなる。四百年以上にわたって常陸北部に勢力をはっていた佐竹氏の突然の移封は、水戸地方の歴史に一大転機をもたらすことになった。