家康は、同年、第五子武田信吉、ついで翌年第十子徳川頼宣を水戸城主としたが、いずれも短期間であり、そのあと同十二年、第十一子徳川頼房を封じ、二十五万石とした。ここに御三家水戸藩が成立する。初代頼房ののち、明治四年(一八七一)の廃藩まで、その子孫が代々水戸藩主であった。
頼房の時代に、領地は二十八万石となり(これが三十五万石の公称を得たのは三代綱条(つなえだ)のときである)、城下町もさらに拡張されて、これまでの堀に加え三の丸西側の堀、紀州堀(泉町と南町の間から気象台にいたる堀)、大工町から馬口労町にいたる堀(現在の栄町通り)の計五重の堀ができた。一方、城の東側一帯にひろがる千波湖を埋め立てるという大土木事業を行い、武家屋敷と町人町を造成した。その後、城郭から西側の台地を上町、東側の低地を下町といい。このとき今日見るような町の形態がほぼ整うこととなった。
徳川時代(江戸時代)の城下町には、武士と町人あわせておよそ二万人から三万人くらいが住み、時代の盛衰によって増減があったと考えられるが、城下町と周辺の農村とは、社会的にも経済的にもつねに密接な関係にあった。
現在の市域のうち、徳川時代に村であったのは、常葉・袴塚・岩根・藤井・飯富・成沢・木葉下・谷津・全隈・田野・加倉井・開江・堀・渡里・金谷・大塚・中丸・飯島・河和田・赤塚・見和・萱場・小吹・見川・千波・平須・笠原・吉沢・米沢・吉田・東野・酒門・石川・谷田・浜田・渋井・細谷・吉沼・西大野・東大野・圷大野・中大野・上国井・下国井・田谷・上河内・中河内・下河内(柳河)・青柳である。