光圀と斉昭

 歴代藩主の中では、二代の光圀(義公、一六二八~一七〇〇)と九代の斉昭(烈公、一八〇〇~一八六〇)が傑出した存在であった。
 光圀は、江戸と水戸の双方に彰考館と名づけた史局を設け、安積澹泊・佐々十竹(宗淳(むねきよ))、栗山潜鋒(せんぽう)らに命じて『大日本史』の編さんを始め、また大規模な寺社の整理と移転、笠原水道の敷設、常磐・坂戸(酒門)共有墓地の開設など、数々の治績を残した。『大日本史』三百九十七巻(別に目録五巻)の編さんが完了するのは、明治三十九年(一九〇六)のことであるから、その修史事業は実に二世紀半にも及ぶ歳月を要したことになる。
 斉昭は、会沢正志斎、藤田東湖らの意見をとり入れながら、天保期の藩政改革を断行した。その一環として天保十二年(一八四一)、城内三の丸の地に藩校弘道館(国指定史跡)を建設し、その翌年には当時の常葉村の一角に偕楽園を造り、あるいは城西馬口労町(現・末広町)に隣接する地に新屋敷を開いて江戸詰の藩士の一部をここに移した。
 このうち弘道館は、全国一の広い敷地と、「弘道館記」に書かれた神儒一致・文武一致の教育を誇り、正志斎や東湖の唱えた水戸学は、全国の尊攘志士たちに大きな影響を与えた。
 偕楽園は、ここに数千株の梅を植えさせた斉昭が、「庶民と楽しみを偕(とも)にする」という意味で名づけたものである。早春、馥郁(ふくいく)と香る梅花を愛した斉昭は、〝天下の魁〟となる人材の出現を、この梅林に託していたのであろう。