幕末期、いわゆる〝天狗・諸生の乱〟によって水戸地方は混乱の極に達した。水戸藩の政争がなお終息しないうちに、明治維新を迎え、新政府は着々と中央集権国家の基礎を固める政策をおし進めていく。
明治二年の版籍奉還につづき、同四年の廃藩置県により水戸藩が水戸県にかわると、弘道館に県庁が置かれた。さらに同年、県の統合により茨城県ができると、水戸は県庁の所在地となり、同八年、茨城県は新治県その他をあわせ、現在の行政区画が確定した。
これより先の同五年、村々では庄屋の名称が廃されて大区・小区と戸長制がしかれ、同十一年大区・小区制が廃されて郡区町村編制法が定められると、水戸は東茨城郡と那珂郡とに属し、上市・下市などに戸長役場が置かれた。
その後、明治二十一年の市制・町村制の公布に基づき、上市と下市のほか、常磐(葉)、細谷、吉田、浜田の四か村の各一部を編入して水戸市が誕生したのは、今から百年前の翌二十二年四月一日のことである。
参考文献 『水戸市史』上巻、中巻(1)~(4)