第1図 大串貝塚付近の地形図
水戸台地は涸沼川の侵蝕をうけて太平洋岸にそって海岸段丘を分離させている。涸沼川は広い氾濫原を有し、ここは現在県内有数の水田地帯となっている。氾濫原の幅は約1kmにも達している。水戸台地から侵蝕によって切り離された大洗海岸段丘は太平洋にそって帯のように発達している。その段丘輻は約500mを測り、侵蝕作用によって起伏にとんだ地形を形成している。海抜38~35mを測り、早くから段丘面は人々の居住地となっており、縄文時代の遺跡群が重複して発見されているのである。 大串貝塚をのせる台地の本来の形については不明確の部分が多い。例えば我々がC地点と呼んだ国史跡のエリアについても台地崖面の傾斜はつよいのであるが、貝層は台地裾に形成されているように、居住と生業の関係を貝層を介在させて理解することは困難なように思われる。A、B地点については段丘状のフラットな部分が存在したのかも知れないが確実な形で居住地を想定するフラット面の存在をここで主張することは出来ない。
さて、大串貝塚をのせる台地は台地縁辺部に近づくにつれて海抜高度を下げ、常澄中学校付近では約18mである。その一角に大山史前学研究所が調査したA地点がある。この付近からは早期田戸下層式土器の出土が伝えられている。しかし、包蔵地のほとんどは常澄中学校の建築のさいに損壊を受けた模様である。即ち、台地上に当る中学校付近に居住地があった可能性がつよいのであるが、今日それを実証することは出来ない。大串貝塚は台地の裾部(海抜約5m)から沖積低地にかけて形成されており、貝層下に獣骨等を焼いたとみられる痕跡もあるところから、ここで調理等がおこなわれていた可能性がつよいのであるが、急斜面という地形的制約によって、居住空間としては不適であることは言をまたない。
調査によって貝層は台地裾部の洪積世面に形成され、その一部分は流れて沖積面に及んでいる。このために沖積低地中にも土器および貝殻あるいは植物質遺物が広く検出されている。沖積土は腐植した有機物を含有するもので、所謂泥炭に近い様相を示している。このような層が砂泥層上にのっているところから、縄文前期の海進時に形成されていったのかも知れない。一般的に当該期は泥炭を主成分とする所謂繊維土器に象徴されるように低地面に生業活動の拠点があったとみられるところから、こうした腐植土内の遺物包含については充分に注意を払う必要があるといえよう。このことは大串貝塚における貝層と同等の重要性を持つものであることを強調しておきたいと思う。当時の環境復元の基礎資料を包含するものであり、本格的な調査、研究が国あるいは県の手で継続されることを熱望するものである。
大串貝塚の形成時に、大串貝塚の前面に展開する沖積地は満潮時には海水の影響をストレートに受け、その砂泥質の水域にはヤマトシジミが繁殖し、ボラ、スズキ、クロダイ、カレイ、マルタなどの汽水域から鹹水域に棲息する魚類が豊富に捕獲されたことであろう。大串貝塚の形成された場所は縄文前期にあっては絶好の生活立地を持っていたものと推測することが出来るのである。
第2図 大串貝塚地形測量図