大串貝塚はわが国を代表する縄文前期の貝塚である。とりわけ縄文前期の花積下層式土器を出土する貝塚としては数少ない貝塚であり、しかも厚い貝層を有する大規模な貝塚として多くの研究者の注目を集めてきた。しかし、本貝塚は発掘調査はそれほど大規模におこなわれたこともなく、そのことがかえって良好な保存状態を保って今日まで残されてきたといえるのかも知れない。
那珂川流域は霞ヶ浦・北浦沿岸についで県内における貝塚密集地域として知られているが、そのほとんどは縄文前期に属し、現在13余箇所の貝塚が発見されている。しかも、その多くは縄文前期前半期の、いわゆる「繊維土器」の時期のものであり、いずれも規模の小さな地点貝塚を特徴としている。その中で大串貝塚は最も規模が大きい。このうち花積下層式土器を出土するものは那珂湊市道理山貝塚があるにすぎない。県内においては当該期の貝塚としては東茨城郡小川町野中貝塚と共に広く知られている。
貝塚の調査はこのところ本格的には実施されていない。かつて貝塚は骨角器などの遺物検出を目的にして実施されてきたが、今日の考古学的調査の進展と共に、従来型の発掘では解決できない問題が多く、次第に調査そのものが困難になってきた。すなわち貝塚の調査には動物学、植物学、地質学など多くの自然科学分野の研究者の参加なくしては、研究が必要としている情報の収集が不可能になってきたからであった。発掘調査は貝塚の構造や地形との有機的な関連で捉えなければならないし、貝類や魚骨・獣骨の単なる種類の同定だけではなく、その成育度や捕獲時期など様々な課題に対して科学的な解答を引き出せるような体制でとりくまなければならないのである。
大串貝塚は現在、数地点に貝層が散布している。大山史前学研究所による発掘調査によって、貝層の分布はA、B、C地点の3箇所に整理され、今日これが踏襲されてきた。
B地点は南側斜面であり、今回の調査区である。この地区は戦後、酒詰仲男氏によって一部分が調査されているが、多くの研究者はこの地点については学校敷地になっていたこともあって、湮滅したものとしてあまり注目していなかった様である。しかし、実際には大串貝塚の中では最も遺存度が良く、厚い貝層を残しているように思われる。
A地点は村立常澄中学校の敷地となっている。ここは今日はぼ湮滅の状態にある。C地点は台地東側の斜面にあり、現在は国の史跡指定をうけている。大山史前学研究所はC地点及びB地点について発掘調査を実施している。
大串貝塚の貝層の分布状況につきては茨城県歴史館(県史編さん委員会)によって実測されている。この実測によって、A地点は2ヵ所の貝層から成り、B地点も二つの小貝塚によって構成される。またC地点も、いくつかの小貝塚群から成るものと思われる。
B地点貝塚は道路を挾んで東側をB1地点、西側をB2地点と仮称しておくことにしよう。B1地点は厚さ1.5mの貝層堆積を有し台地斜面部から裾部にかけて形成されている。裾部は住宅建設によって削土されてしまい、貝殻が広い範囲に散乱している。今回はB1地点に主トレンチと補助トレンチを設定した。
県道を挾んだ地点をB2地点と仮称したい。本地点は小貝塚群が群集しており、現在でも3~4箇所の小貝塚が認められるが、その具体的構造については不明である。酒詰仲男氏の調査がおこなわれた地点である。今回、その一角に小トレンチを一箇所設定して貝層の平面的分布の追跡を試みたが、貝層そのものについては掘り下げなかった。
A地点については2箇所の小貝塚が大山史前学研究所によって確認され、そのうちの一箇所が調査されている。また、C地点についても大山史前学研究所による調査がおこなわれ報告がおこなわれている。しかし、これらの発掘は貝層以外に目が向けられていないために、遺物包含層のひろがりを含む大串貝塚の基本的な構造については明らかにされなかった。
参考文献 田沢金吾、大場磐雄、池上啓介、宮崎糺、「大串貝塚」史前学雑誌9巻2号、昭和12年
酒詰仲男、広瀬栄一「茨城県東茨城郡大串貝塚調査報告」日本考古学1-5、昭和25年
茨城県「茨城県史料 考古資料編(先土器、縄文時代)」昭和57年