3.調査の目的

 大串貝塚は縄文前期貝塚としては貝層の分布が広範に及び、かつ厚い堆積を有しているために編年研究だけではなく集落研究などの上でも重要な位置を占めているといえよう。このために、早くから研究者の注目を集め田沢金吾、大場磐雄、池上啓介、宮崎糺の各氏らによる調査(『大串貝塚』史前学雑誌9巻2号、昭和12年)や酒詰仲男、広瀬栄一氏らによる調査(『茨城県東茨城郡大串貝塚調査報告』日本考古学1-5、昭和25年)をはじめとして県内外の研究者によって調査研究がなされてきたのである。しかし、これらの調査を通じて大串貝塚に関する基本的データーの発表は不充分であり、今日的には若干の貝類や動物・魚類遺存骨と土器などの人工遺物が明らかにされているにすぎない。すなわち貝層の分布状況やその構造、遺跡としてのひろがりについてはほとんど明らかにされていないといっても過言ではなかろう。わずかに茨城県歴史館による測量調査(『茨城県史料(考古資料編)先土器・縄文時代』昭和57年)によって貝層のひろがりが示されたのであるが、これが遺跡としてどのような構造を持つものかについては明確にはされなかったのである。


第3図 大串貝塚B1地点トレンチ設定図

 大串貝塚は縄文前期の遺跡として全国的に見ても重要な位置を占めている。とりわけ花積下層式土器を出土する遺跡そのものが多くはない中で、本貝塚の主形成期が当該期であることは、その自然環境や文化の解明のために本貝塚に課せられた課題は少なくないといえるのである。大串貝塚は現在、C地点のみが国の指定史跡となっているが、その他の部分については無指定であり、その保存対策の必要が指摘されていた。また指定部分についても単に地表面から貝殻の散布が確認されている部分のみであって、地表面下の状況については何一つとして検討されているわけではないのである。そういう意味では学術的な調査に基づいて貝塚の範囲と構造を明確にし当面史跡の拡大は保存対策上の緊急の課題になろうとしているといえるのである。それと同時に、今後の調査を想定した縱軸と横軸を明らかにしておくことが発掘という遺跡の破壊を伴なう作業の調査者の責任であろう。
 大串貝塚は基本的にA、B、Cあるいは甲、乙、丙のように3地点に分けて捉えられてきた。貝層形成の時間的経緯と貝層間の不連続性から調査団は3地点に分けることにするが、今回の調査はB地点の分布状況を明確にすることにした。しかし、大串貝塚は単に貝殻が散布する範囲をもって遺跡として認識すべきものではなく、遺跡としての領域は貝層を残した人々の住居あるいは生産活動の場との有機的な関連において把握されるものであり、こうした課題と調査期間の整合関係の上で調査規模が決定された。
 一口に分布調査と言っても簡単にはいかない。分布調査にしても貝層確認の調査にしても、それは垂直分布と平面分布の二つの側面から捉えられるものであり、これらは今後の調査の尺度としての精度を要求されているといえるであろう。こうした点を考慮して大串貝塚の貝層各地点について検討してみるとB1地点は土地所有者市毛氏宅の建築のさいに台地裾部が削平されたさいに、貝層の露出をみこれがかなりの厚さを有しているものの、貝層のひろがりについては明確ではなく、散乱した貝殻は住宅の周辺および畑地にひろがっていた。この地点については貝層のひろがりを平面的に追いながら、その垂直分布を明らかにする必要を痛感した。B2地点については当面破壊の危機はない。かつて酒詰仲男氏による調査がおこなわれているので、貝層がどの付近にまで伸びているかをトレンチ及びボーリング調査によって確認することにした。垂直分布については今後実施する必要があろう。A地点については常澄中学校の建築によって大部分が失なわれている。また国指定になっているC地点については、地表面の観察によって貝層の範囲が決定されているが、遺物の包含層はさらに下位面に及んでいることは確実であり、調査が必要であるが日程の都合により、今回は実施することは避けた。遺跡の範囲を正確に決定するためにはA、C地点については後日調査が必要であると思われる。