第六章 まとめにかえて

 貝塚を含めた遺跡の最近の調査は,国指定地区に隣接した民有地に新しい貝層が発見され,その範囲を明確に把握する目的をもって,昭和60年8・9月に川崎純徳氏を担当者として実施し,前期縄文土器(花積下層式)をはじめ骨角製釣針,釣針未成品,刺突具,貝輪,貝刃などが出土した.周知の貝塚ではあるが,あらためてその重要性が指摘される調査であった.
 昭和62年10月には,常澄中学校の隣接畑地に体育館を新設するための確認調査が実施された.この調査において村道塩崎小山線の東側に円形の周溝墓を発見し,この付近の5世紀代にかかわる墓制資料の一斑を獲得した.
 今回は村当局が積極的に推進している(仮称)『大串貝塚におけるふれあいのまちづくり』に関係した確認調査を行い,縄文時代の後期土壙2基,古墳時代前期の住居址5軒を発掘し,さらに存否が不明であった古墳の確認作業において,それが方墳の形状を呈するらしいことが判明し,本村はもちろん那珂川下流域の考古学的新知見を一層あきらかにすることができた.
 そうした調査の内容については,すでに記述してきたとおりである.けれども竪穴住居址の中で,特に第三号住居址の埋没土のありかたは,種々の問題点が含まれていると思う.
 本住居址の床面においては,ほとんどの外区全周に厚さ10~20cmの焼土層(灰や炭化物も混在する)の堆積がみられ,しかも内区より壁面寄りが厚くなっている.また,部分的ではあるが床面が煉瓦状にかたく焼土化している所もある.この状態は通常の火災住居とあきらかに相違する.廃絶住居の凹地を利用して燃焼または焼却した跡のように考えられる.最近の発掘例では,那珂湊市山崎遺跡,水戸市薬王院東遺跡などでも,本址と同様の状態が確かめられている.日常の生活用具である土器は,非常に破損しやすい土製品であり,これの補充はしばしば行わなければならない.竪穴の凹地はまさに絶好の燃焼場所であって,不用な物を焼却したというよりも,焼土の堆積量や性状などを考慮すると,土器焼成のために使った疑いが強く感じられる.
 各住居址から出土した土師器は,いわゆる古墳時代前期に該当する土器群である.各器種の中で高坏形土器の器形的特徴は有効な編年の指標に使われる.そこでその特徴的内容を抽出するとすれば,坏部・脚部・裾部の中で問題となる部位は脚部の形状である.これはすでに指摘したように,形状が柱状を呈し長くのびて,中膨みの傾向さえも窺われ,和泉式に移行する直前の姿とみてよいだろう.こうした高坏形土器をはじめとする他の器種を総合すると,本住居址群は4世紀終末~5世紀初頭に営まれたものと考えられる.
 方墳については,昭和50年3月に調査した大六天古墳(5世紀代)があり,さらに新例を追加することとなった.本村の古代史解明に新資料が提供でき,大変有意義な調査であったと思う.
 末筆ながら常澄村教育委員会の諸氏に厚い感謝の意を表する次第である.