奈良時代の和銅6年(713)に編さんした『常陸国風土記』には,巨人の所業と結びつけた大串貝塚の説話が記載されていて,古代律令社会の人々の貝塚に対する理解を窺う貴重な記録であり,同時に貝塚のことを記した文献としては,世界史的にも最古のものといわれている.
近世に入ると水戸藩の修史事業においても,大串の貝塚は中山信名,宮本茶村などの碩学によって注目されてきたが,その考説は巨人伝説の域をでるものではなかった.
明治20年代になると,吉田東伍,坪井正五郎,若林勝邦,八木奘三郎,川角寅吉,辻 武雄らにより,風土記の巨人伝説に関連して,大串貝塚の問題が種々な角度から論じられるようになり,貝塚は石器時代の遺跡であるという認識が定着してきたのである.
昭和11年8月は,大串貝塚にとってはじめて学術調査が行われた記念すべき年であった.発掘は,大山史前学研究所主宰のもとに田沢金吾,大場磐雄,池上啓介,宮崎 糺らが実施した.その結果は,『史前学雑誌』第9巻第2号に「大串貝塚」として発表されている.貝層の分布は,台地上畑地(常澄中学校敷地)のA地点,南側の傾斜圸下端部のB地点,東側傾斜地のC地点の3か所に認められ,縄文時代前期のヤマトシジミを主体とした貝塚であることが明らかになった.発掘資料は,第2次大戦で東京が空襲をうけた際に焼失し残っていない.
ついで昭和18年6月23・24日の両日,酒詰仲男,広瀬栄一らが試掘程度の発掘を行い,戦後の昭和24年に日本考古学研究所の『日本考古学』第1巻第5号に「茨城県大串貝塚調査報告」として公表した.しかし,僅か2日間という短時日の発掘であり,3地点からなる貝塚の貝層の分布・積成状態などまで把握することは困難であった.
戦後,私たちも部分的に小発掘を行ったことがある.その時の資料は,昭和41年4月『茨城先史学研究』1に出土土器を中心として発表した.いずれにしても,貝塚の全体像はほとんど明らかにされていない.
大串貝塚が国指定の史跡となったのは,昭和45年5月11日である.その後,県史編さん事業の中で貝塚の測量図が作成された.これは縄文前期貝塚の貝層分布のありかたを提示した資料として,大変意義のある作業といわねばならない.
常澄村教育委員会は,昭和60年8月17日-9月4日まで,南側傾斜地のB地点の道路を挟んだ東・西の2か所(B1・B2地点)における貝層分布の確認を主とした調査(担当川崎純徳)を実施した.翌61年3月に刊行した報告書によると,B1地点には予想もしなかった厚さ1.5mの良好な貝層が出現し,その積成状態が詳細に記録できたことは幸いであった.貝層からは,縄文前期の繊維土器(花積下層式・二ッ木併行式)に加え,昭和11年の発掘資料にも増して多くの動物遺存体(腹足綱14種,斧足綱14種)が検出された.また従来ほとんど知られていなかった鹿角製釣針,刺突具,貝刃などが多数出土し,あらためて大串貝塚人の漁撈活動の内容を考え直す必要があるように思われる.
以上のような調査研究を踏まえて,今回は,『大串貝塚周辺におけるふれあいのまちづくり』事業の一環として,貝層断面観覧施設の建設に伴う,貝塚の範囲確認および保護の資料をうるための確認調査を実施した.調査地点は,先年発掘したB1地点貝塚の北側に続く旧簡易水道施設の跡地である.確認調査は,平成2年10月17日から同月29日まで行った.