第二章 遺跡の位置と環境

 国指定史跡の大串貝塚は,茨城県を代表する著名な縄文時代前期の遺跡である.この貝塚の所在する台地上,常澄中学校の西南側一帯には,これまでに縄文時代後期の土擴,弥生時代後期の遺物,さらには古墳,円形周溝墓,竪穴住居址などが発見されている.こうした各種遺構のある台地上の遺跡は,一般に貝塚と区別して大串遺跡(塩崎原遺跡を含む),大串古墳と呼んでいる.
 大串遺跡は,あらためて説明するまでもなく,平成4年3月3日に水戸市へ合併するまでは,東茨城郡常澄村塩崎の行政区画名で親しまれてきた.合併後の新名称は水戸市塩崎町と変った.
 遺跡の位置と環境については,先般調査した『大串遺跡』(常澄村文化財調査報告第3集 平成元年十月)において記述したとおりであり,自然環境的,歴史的事実になんら変わりがないのでここに再度収録したいと思う.
 遺跡の占地する水戸東南台地は,那珂川右岸に形成され,涸沼川との合流地点に向って発達し,先端部付近は標高18~25mを測る三角形状を呈する.東南に展開する沖積地は,標高2m前後の非常に広大な水田が続き,やがて涸沼川を介して大洗の洪積台地に至る.
 一方,那珂川の左岸には,三反田の台地が河口方面に発達し,両台地間は那珂川の形成した肥沃な水田地帯となっている.
 貝塚が形成された縄文時代前期の海進時の頃は,台地の近くまで海水の影響を受けた汽水域がみられ,各所にラグーンを形成していたことは確実である.水域にはスズキ・ボラ・クロダイ・ドチザメなどの魚類が棲息し,砂泥底のラグーンはヤマトシジミやイソシジミなどが繁殖する好条件を備えていたと思われる.また,台地の森林はイノシシをはじめシカ・タヌキ・テンなどの中型哺乳動物にとり絶好の住処であったにちがいない.
 やがて時代が推移して本遺跡で発見した住居址(古墳時代前期)を営む頃になると,海退現象は一層すすみ那珂川流域の水戸市圷大野・同中大野遺跡の出土品が示すように,沖積低地の中でも標高4m程度の微高地は陸地化して,居住環境が台地から低地に拡大するようになり,これにともなって水田農耕の基盤も次第に確立されてくる訳である.
 大串遺跡を取り巻く自然的環境の一端は,かならずしも各時代により同一とはいえないが,大略以上のように想察できよう.
 現在,貝塚を含む常澄中学校西南側一帯は,昭和63年11月から始められた「大串貝塚周辺におけるふれあいのまちづくり事業」により,歴史公園(大串貝塚ふれあい公園)として整備がすすんでいる.そこには歴史資料の保管と展示,コミュニティ形成の場を目的としたL・E・Cセンター,ダイダラボウ伝説の巨人像,貝層断面観覧施設,縄文・弥生・古墳時代の復元住居などが建設され,さらにこのたびの道路拡幅によって,その景観は大きく変貌しつつある.

第一図 遺跡付近地形図(○大串貝塚)