第六章 まとめ

 大串遺跡の第二次調査(昭和63年-平成元年)に引き続き実施した今回の発掘概要と成果(第三次調査)は,以上に記述してきたとおりの内容である.
 大串貝塚ふれあい公園内のL・E・Cセンターを中心とした第二次調査時の遺構は,古墳時代前期の竪穴住居址が5軒発見された.今回の隣接する市道常澄8-1495号線内においては,前回と同様の住居址が9軒出土し,当初予想しなかった古墳時代後期以降の住居址2軒があらたに確認できた.この遺構分布の状況からは,本地区の南西側になお多くの住居址群が存在し,古墳時代前期を中心とした4世紀後半代の集落が形成されていることは明確であり,あらためて本遺跡の考古学的重要性を指摘できるのである.
 ここ大串の地は,縄文前期の古い時代から大規模な地点貝塚が形成され,弥生時代の集落は未発見であるが,古墳時代に移行すると前期の集落,続いて後期の集落が存在し,首長層の古墳も周辺に築造されている(『水戸市北屋敷古墳』平成6年12月刊行予定).さらに律令制下の奈良・平安時代にも多くの人びとが居住し,中世・近代をへて現在に及んで営みを続けている(『常澄村史』通史編 平成元年8月).先史・古代から長期にわたって人びとの生活を支えてきた基盤は,この台地をはじめ那珂川と涸沼川が形成した沖積低地〈食糧資源の獲得に適した自然環境〉を擁していたからに他ならない.
 といっても4世紀から5世紀代にかけて,現在のような灌漑施設の整備された立派な水田や畑地が展開していたわけではない.ちなみに,本遺跡の北西約2~3km付近を蛇行東流する那珂川の右岸には,南側の水田より若干地盤高度の高くなる微高地(標高5m前後の自然堤防)が形成されている.川筋の中大野,圷大野,東大野や西大野の地が該当する.ここの圷大野と西大野には,古墳時代前期(五領式)から中期(和泉式)の遺跡が存在し,遺構の詳細は不明な点もあるが,甕形土器,壷形土器,坩形土器,鉢形土器,高坏形土器,器台形土器などが出土している.生活用具としての土器類が出土する場所は,そこに該期の集落が存在したことを示唆するものである(『茨城県の土師器集成』第1集 昭和42年3月).この微高地の南西側一帯から大串台地にかけては,狭小な支谷間の谷津とは別に,肥沃な土壌をもつ水田可耕低地が展開していた.食糧資源の獲得に適した自然環境の形成は,まずこうした土地の開田作業から始めなければならない.両遺跡の集落は,そうした農業生産に従事した人びとの遺跡,多分に農業生産を拡大させるための開拓拠点的な性格を帯びた遺跡であったと思われる.そして,それはほぼ現在の集落分布の先駆的な状況を示していたといえるのではなかろうか.また一方においては,河川の魚介類(フナ・ウナギ・スズキ・サケ・ヤマトシジミなど)捕獲も大きな魅力であったにちがいない.
 大串の丘に占地し集落を構成した人びとは,圷大野や西大野遺跡の場合と同様に,そのほとんどが水田耕作のために沖積地への進出,あるいは畑作などの営農活動,または漁撈活動(第五号住居址出土の土錘参照)に従事していたことが充分に考えられるのである.
 一方,農業生産に従事していた大串遺跡の人びとにとっては,まつり<祭祀>も重要な生活の一要素を占めていた.すなわち,第一号住居址に珪岩製の管玉2個,第二号住居址に管玉1個,第九号住居址に管玉1個と手づくね土器,第一一号住居址に管玉3個と手づくね土器,第一四号住居址に管玉1個と手づくね土器が出土している.第二・三次調査を合せて16軒の住居址を発掘した.このうちの5軒の住居址から大小8個の管玉,手づくね土器,さらには高坏形土器(赤彩土器を含む)などが発見された.これらはあらためて説明するまでもなく,祭祀行為に関係のある遺物と考えられる.
 近隣の遺跡では,昭和63年に調査した那珂湊市山崎遺跡の古墳時代前期住居址27軒中,10軒の住居址において高坏形土器や壷形土器などに,赤彩を施す事例が認められ,管玉も1個だけ出土している(『那珂湊市部田野山崎遺跡』平成2年3月).また,平成4年から5年に調査した鷹ノ巣遺跡では,古墳時代前期住居址17軒中,過半数の10軒で高坏形土器,壷形土器,坩形土器などを赤彩し,管玉は未発見に終ったけれども,石製模造品(勾玉・有孔円板)を出土した住居址が1軒存在した(「那珂湊市蠧ノ巣遺跡」平成6年3月).
 ここで本遺跡と鷹ノ巣遺跡の祭祀関係遺物の種類を比較すると,本遺跡の場合は,管玉と赤彩土器と手づくね土器,鷹ノ巣遺跡にあっては,石製模造品と赤彩土器という組みあわせになるかと思う.山崎遺跡の新しい調査内容は,教育財団が道路建設地内を発掘中であり,詳細はまだ公表されていない.私たちの発掘では,すでに管玉が出土していることから,おそらく前者の仲間に入るかもしれない.
 以上のようにみてくると,本集落内においては,数軒を一つのグループとした屋内祭祀,その中心となった祭祀具は管玉であって,赤彩土器や手づくね土器が併用され,個別的に豊穣,豊漁の祈り,あるいは感謝の祭りを執行していた生活の一面がうかがわれる.日常の生活用具“土器”をはじめとする各種の遺物を出土した大串遺跡は,常澄地域の古代史を解明する上で,きわめて資料的価値の高いものといえよう.

 謝  辞
 このたびの市道常澄8-1495号線の改良工事に伴う大串遺跡の発掘調査については,市建設課,市生涯学習課ならびに大串貝塚ふれあい公園L・E・Cセンター諸氏のご高配とご指導により,短期間内に発掘調査と出土遺物の水洗,注記,接合復元,図面整理,実測図作成,報告書の執筆など,一連の困難な学術的作業を遂行することができた.ここに報告書が上梓されるにあたり,あらためて関係各位に深甚なる謝意を表するものである.(井上義安)